この記事を読む前に、
太乙神数*皇極経世*奇門遁甲 起点は甲戌世の甲子年甲子月 をお読みください。
黄帝紀元(こうていきげん)とは、中国人の先祖とされる伝説上の帝王黄帝に基づき、清朝末に創始された紀元。「黄紀」ともいう。紀年法としては黄帝紀年(こうていきねん)という。
光緒29年(1903年)、劉師培は『国民日日報』に「黄帝紀年論」を発表し、年号制に反対し、同時に康有為ら変法派が主張した孔子紀年にも反対した。劉師培は黄帝誕生の年を紀元とすることを主張し、1903年を黄帝紀元4614年とした。
しかし、生卒年は文献上で一致する年がないため、宋教仁は黄帝即位の年とされる癸亥の年を紀元とすることを主張し、1904年を黄帝紀元4602年とした。中国同盟会の機関誌『民報』を始めとして革命派の雑誌はこれを採用した。
また、黄帝について、
黄帝(こうてい)は、神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。また、三皇のうちに数えられることもある。(紀元前2510年~紀元前2448年)
とあり、黄帝の生存期間を紀元前2510年~紀元前2448年としており、宋教仁による黄帝即位の年、紀元前2698年とは一致しません。
宋教仁の言う紀元前2698年は癸亥年であり、冬至正月説に則れば、子月から甲子年に入り、黄帝即位の年月日時「甲子年・甲子月・甲子日・甲子時」を干支の始まりとした、という伝説と一致しそうですが、実はこの年の子月には、甲子日が無く、「甲子年・甲子月・甲子日・甲子時」は存在しません。
次の甲子日は1月26日ですから、冬至を子月の始まりとしても、30日以上経過してしまいます。つまり伝説とは一致しません。
"wiki/黄帝"の著者が、どのようにして黄帝の生存期間を特定したかは定かでありませんが、紀元前2510年~紀元前2448年 の間で、「甲子年・甲子月・甲子日・甲子時」を探してみますと、次の日付が見つかります。
この年の子月にも、甲子日が無く、「甲子年・甲子月・甲子日・甲子時」は存在しません。しかも、この時の黄帝の年齢は53歳ということになりますから、黄帝即位は二十歳の時という伝説とも一致しません。
試しに、少し年をずらして検索してみますと、
この日付だと、冬至正月なら、すんなり「甲子年・甲子月・甲子日・甲子時」になりますから、この日付を「黄帝紀元」にすれば良かったかも知れません。
ただしこの年を「皇極経世」で見ると、「甲寅世」の始まりですから、とても「基点」とは言えません。
この付近で太乙年盤の、甲子年・陽一局を探すと、紀元前2637年の盤が見つかります。
この 甲子年 は 庚戌世の始まりであり、つまり1800年周期の基点に当たります。
これは、丑月ですが、冬至に一番近い甲子日には間違いありませんから、太乙神数の作者は、ここが黄帝即位の日と考え、実際の基点とした可能性も無いとは言えません。この年は、宋教仁説の紀元前2698年から60年後に当たります。
ついでに、奇門遁甲の年盤を見ますと、甲子上元陽一局であり、180年周期の基点に当たります。つまり辰・戌世の甲子年が遁甲年盤の基点になります。
奇門遁甲は、「風水」の「巒頭」を記号類型化したもので、最初は時盤だけがあり、後に、日盤、月盤、年盤、などが作られたものと考えられます。太乙神数は年盤が先にあったはずなので、遁甲に年盤が出来たのは、太乙神数の影響とも考えられます。
「黄帝紀元」は「黄帝伝説」の「干支」から設定されたものですから「太乙神数」や「皇極経世」などと、矛盾の無い年月日を選んで貰いたいものです。
以上は、「黄帝伝説」に基づき、「黄帝紀元」と「干支」「皇極経世」の関係を考察したものですが、実際の「黄帝」の時代と、「易卦」や「干支」との関係は、どうだったのでしょうか。
易卦の成立 夏王朝から漢王朝まで
フランスの歴史学者ラクベリーによると、古代バビロンからバク(盤古)族という民族が、中国に移住してきて定着し、農耕を始めた頃のリーダーがサルゴンという人だったといいます。このサルゴンを中国的に音訳しますと「神農」ということになります。リーダーが「神農」だったから、神農族とも呼ばれます。
このサルゴンの以前に、ウルバウというリーダーがあり、これが「伏犠」にあたります。つまり遊牧時代のリーダーということになります。
ラクベリーの説の多くの論拠のなかで最も納得しやすいのは、古代から中国人にとって不可欠だった八卦の記号が、バビロニアの楔形文字と非常に類似しているという事です。
神農族が活動していた地域は、江南の太湖の南一帯にありました。そしてここ十年間ぐらいの間に、大規模な遺跡が発見されており、良渚・河姆渡・羅家角という三つの遺跡の発掘によって、紀元前五〇〇〇年以前から稲作文明があったことが証明されています。
神農族のリーダーが引き継がれて「炎帝」になったときに、土着の苗族との争いに弱り切ってしまいます。これに乗じて、神農族の支流の部族である、少典族のナクンデというリーダー、つまりこれが「黄帝」のことですが、ナクンデ(黄帝)が、内部争いで炎帝を倒し、苗族を追っ払って、後世の中国人に始祖として仰がれる事になります。黄帝には、少なくとも二人の息子があり、王位は次の図のように継承されました。
┌ 摯
┌ 青陽 ー 蟜極 ー3嚳 ー 4堯(唐)ー 舜(虞)
1黄帝─┤
└ 昌意 ー 2顓頊 ー 鯀 ー Ⅰ禹(夏)ー Ⅱ啓(夏)
三代目の嚳には二人の息子があり、下の堯が、四代目を継承し、このとき「唐」という国名を使っていました。堯は、二人の娘の婿である舜に位を奪われます。あるいは位を奪ってから、娘も奪ったのかもしれません。
舜に位を奪われたあと、鯀がこれを奪い返そうとしますが、治水事業の失敗を理由に殺されてしまいます。鯀の息子の禹は、じっと我慢して舜に仕え、舜が死んだあとで再び位を奪って「夏王朝」を建てます。
「夏」の建国は治水伝説に包まれており、禹が治水事業の成功によって位を得たと、まことしやかに伝えられています。
例えば、司馬遷の『史記』によりますと、黄帝や堯・舜・禹などが活躍した場所は、黄河流域ということになっています。
ところが、考古学的に見ると、黄河流域の遺跡(特に河南省に分布する夏王朝時代の遺跡)には、洪水の被害を受けた形跡はほとんど無いのです。
かえって揚子江の出口あたりには、紀元前二二〇〇年ごろの夏王朝成立直前に大洪水があり、最先端を走っていた一大文明を崩壊にまで追い込んだという証拠が、続々と出てきております。
「夏」王朝は、禹の息子の啓から本格的にスタートします。禹の時代は、揚子江の下流一帯で、堯や舜などが良渚国家を作ったり、大洪水と戦った紀元前二二〇〇年以前のある期間だったのです。
つまり禹は揚子江を治水したのではなく、大洪水のあと、人びとを引き連れて、揚子江を渡って黄河流域に行ってしまったのです。なにしろ現代の江沢民―胡錦濤政府ですら、治水はなかなかうまく行かないのですから、当時では到底不可能なことです。
良渚文化の初期国家の段階における進歩は、紀元前三三〇〇年から二二〇〇年の間に成し遂げられていて、紀元前二二〇〇年ごろ、この高度に発達した最初の文明国家は、大洪水のために崩壊していたのです。
このあと何故か、黄河流域の河南省あたりに、良渚式の土器や生産道具などが姿を現わしたのです。これは良渚を棄てた人びとが持って行ったと考えることができます。また、河南省では、「夏王朝」の首都と見られる遺跡に、良渚と同じ方式の祭壇を持った宮殿なども発掘されています。
「夏」王朝の文化は、崩壊した良渚文明から、生き残った人びとが、その先進的な文明と技術を携えて北上し、河南の龍山文化圏に入ったもので、黄帝の子孫たちが「夏王朝」を建てたものです。
この時代には、卦・爻・易卦というものは、おそらく記号だけに使われ、卦辞や爻辞のような文章は全くなかったと考えられます。
「夏」王朝の次には「殷」王朝が起こります。「夏」王朝の末期に、支配下にあった土着の「子」姓を持つ「戎」族が、次第に力をつけ、そのリーダーである「湯」王によって、ついに「夏」王朝は滅ぼされてしまいます。
「夏」の人びとは、貴族は北方に追い払われ、平民は河南の「杞」というところに移されます。後に人口が増えるにつれて山東半島へ移動し、今でも山東半島には中国人ばなれした体格の大きな人が多く、「山東大漢」と呼ばれています。
『史記』によりますと「匈奴」は「夏」の貴族たちの後裔、つまり子孫たちだと言っております。「匈奴」はしきりに中原に攻め込もうとしますが、「漢」王朝の軍隊によって西へ西へと追い払われ、ヨーロッパに向かって移動します。これがフン族で、現在のフィンランド人やハンガリー人です。
それまでは互角の戦いをしていたのに、「漢」代になって「匈奴」が大敗した最大の原因は、お互いに採れる鉄の質が違い、剣を交えたときに「匈奴」の兵の剣は折れてしまうためです。
「殷」王朝は、今の陝西省から河南へ進出した「子」姓の「戎」族が建てたもので、河南に来たときには、すでに干支を使っていました。
「夏」の一族が使った文字は、まだ発見されていませんし、文字があったかどうかもわかりません。
「殷」の一族が使った文字は、甲骨に残されているので「甲骨文字」と呼ばれています。(「甲文」と略称される)
「周」王朝は、「殷」に続いて、今の陝西省から河南に進出した戎族の第二波で、「姫」姓の戎族と、もともと河南一帯に住んでいた「羌」姓の一族とが連合して殷王朝を滅ぼし、建てた王朝です。
太公望呂尚の伝説が有名で、周の文王が、魚釣りをしていた太公望を軍師に取り立てて、殷を攻めることができたといいますが、本当は「姫」氏と「羌」氏はもともと仲の良い部族同士で、「姫」氏は「姜」氏から代々后妃を貰っていたくらいで、上下関係というよりは、連合軍を組んで殷を滅ぼしたものです。
「殷」王朝を継承した「周」王朝は、「姫」姓と「羌」姓の戎族で、「殷」の人と同じ文字や言葉を使っていたと考えられています。これは甲骨文字研究の日中座談会などでも一致した見解です。
当然干支も使っていたわけです。
そして記号は、もともと戎族の使っていた「干支」の他に、「夏」族が残していった「卦爻」も使うようになりました。そして、甲骨を焼いてその割れ目の形で占う方法のかわりに、筮(ぜい)を使った卦爻で表現する占いをするようになりました。筮と言っても筮竹ではなく、葦(あし)を採ってきて、その本数を数えるやりかたです。そうして、だんだんと筮卜を「卦爻」で表現する占いが主流になってきました。
判断の仕方は、「卦」の象と「爻」の象とを見て、そのイメージををとりますが、基準に客観性が乏しいため「卦辞」と「爻辞」を加えて客観性を持たせようとしたのが「周易」です。
(明澄五術全集第8巻『周易大全』序論より)
「黄帝」について、関連事項を、前回取り上げた『周易大全』から抜粋します。
「夏」王朝の文化は、崩壊した良渚文明から、生き残った人びとが、その先進的な文明と技術を携えて北上し、河南の龍山文化圏に入ったもので、黄帝の子孫たちが「夏王朝」を建てたものです。
この時代には、卦・爻・易卦というものは、おそらく記号だけに使われ、卦辞や爻辞のような文章は全くなかったと考えられます。
「殷」王朝は、今の陝西省から河南へ進出した「子」姓の「戎」族が建てたもので、河南に来たときには、すでに干支を使っていました。
「夏」の一族が使った文字は、まだ発見されていませんし、文字があったかどうかもわかりません。
「殷」の一族が使った文字は、甲骨に残されているので「甲骨文字」と呼ばれています。(「甲文」と略称される)
「殷」王朝を継承した「周」王朝は、「姫」姓と「羌」姓の戎族で、「殷」の人と同じ文字や言葉を使っていたと考えられています。これは甲骨文字研究の日中座談会などでも一致した見解です。
当然干支も使っていたわけです。
そして記号は、もともと戎族の使っていた「干支」の他に、「夏」族が残していった「卦爻」も使うようになりました。
つまり、夏王朝の時代には漢字を使っておらず、殷王朝の時代には「甲骨文字」という漢字が使われ、干支も残されています。
「黄帝伝説」では、「甲子年・甲子月・甲子日・甲子時」の「冬至」に、黄帝が即位し、この日を基点に「六十干支」が使われるようになった、ということになっています。しかし、前回の記事で分かったように、「黄帝即位」の年と思しき年代には「基点」になるような「甲子日」は見つかりません。
それより何より、黄帝の時代には、漢字も干支も無かったと考えられ、「黄帝即位」から「六十干支」の順行が始まった、という可能性はほとんど全くありません。
それでは、「干支」というものは、どのようにして生まれたのでしょうか。
『子平命理・基礎篇』より
「干支」の成り立ち
「子平」を始めとする、中国の諸占術は、すべて時間を記号化した「干支」か、または事象を記号化した「卦爻」(易卦)のどちらか、または、両方を基本としております。
もともと、「干支」というものは、殷王朝を起こした民族が陝西省あたりから河南地方へ移ってくる以前から、多数の甲骨文字を持ち、このなかに含まれていたものです。
「卦爻」のほうはもっと古く、後に夏王朝を建てた民族が、現在のイラクあたり、つまり人類文明の発祥地であるメソポタミア周辺から、揚子江付近に移住して来たときに中国に持ち込んだものです。
この民族は「盤古(バク)族」と呼ばれ、揚子江の河口近辺の肥沃な土地で農業を始めましたが、肥沃な土地であるかわりにいつも洪水に悩まされることになりました。
よく「四大文明」などと呼ばれますが、人類文明の起源はメソポタミアであり、他の文明はいずれもメソポタミアから伝わったものです。そしてこれら文明の発祥地とされる土地は、すべて大河のほとりにあり、肥沃な土地であるとともに、常に洪水の危険にさらされていました。
かつて中国文明の発祥地は黄河流域とされてきましたが、近年、揚子江下流の「良渚」や杭州湾南岸の「河姆渡」などの遺跡が次々に発見され、「黄河文明」が発生するはるか以前に「揚子江文明」が栄えていたことが証明されました。これらの地域は、ちょうど春秋時代に「呉」と「越」が覇権を争ったところですが、実は「黄河文明」発生以前から物産の非常に豊かな地域であり、少なくとも紀元前五〇〇〇年ごろには大規模な稲作が行なわれ、「都市文明」が栄えていました。これらの「都市文明」は揚子江の大洪水のために大きな打撃を受け、ついには移動を余儀なくされました。そして「黄河文明」の遺跡から発掘された土器や青銅器などの文物が、実は「良渚」遺跡で発見されたものと同じ様式であることがわかってきております。
当初「盤古族」を率いたリーダーは「神農」「伏犠」などと呼ばれ、後に「黄帝」「堯」「舜」などと呼ばれるリーダーが出て王朝を建て、治水事業を行ないました。ところが、揚子江の治水はとても困難で、ついに「禹」と呼ばれるリーダーが一族を率い、黄河に近い「中原」と呼ばれる地域に再び移住し、夏王朝を建てます。
この民族が数字として使っていたのが「卦爻」であり、その形状は、この民族に非常に近いものと見られるフェニキア人が使用した「楔形文字」との類似性が強いものと言われております。
夏王朝はやがて殷王朝によって滅ぼされ、夏王朝の人々の一部は北方に逃げて「匈奴」と呼ばれるようになりましたが、「卦爻」のほうは殷王朝の人々にも受け継がれ、殷の民族が以前から持っていた「干支」とともに使われるようになりました。
当時から「干支」は時間を記録するために使われていたもので、最初、十干は日を表わし、十二支は時間を表していました。
年月日時、すべてに「六十干支」を当て嵌めるようになったのは、大分後の時代のようで、有名な「甲骨文」の「月食」の記録にも、日干支の記録はあっても、年干支や月干支は記録されていません。
困難ではないと予想されたものの、実際にはどうしてもうまく辻褄が合わないようで、未だに「甲骨文」に記載された、月食の年月日は特定できていません。
もし、甲骨文に「年干支」や「月干支」が記録されていれば、簡単に西暦の年月日が割り出せたことでしょう。
仮に「黄帝」の時代に「干支」があったとしても「日干支」だけであり、「甲子年・甲子月・甲子日・甲子時」などと言う認識は有るべくも無く、「冬至」で「子月」というのも、殷代よりずいぶん後の時代の創作と考えられます。
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干支と五行の知識、立命の方法、干関係の見方、強弱の見方、変通の見方、格局の見方、喜忌の見方、体用の見方などを解説します。 |
くるみ綴じ製本 |
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「周易」とは、もちろん中国周時代の「易」という意味ですが、もともとはただ『易』という書物であり、後に「漢易」や「宋易」が生まれ、区別するために「周易」と呼ばれるようになりました。 甲骨文字の発見以降、当時の意味での解釈が可能となり、漢学の大家である張明澄先生の講義「周易甲骨金石解」を、掛川掌瑛によって編纂された本書において完成させております。 |
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「太乙神数・命卜相講座」でテキストとして使用します。 五術・六大課の中でも、「太乙神数」は最も習得が難しく、使える人も非常に少ないことが知られております。本書では、難しかった太乙神数の作盤法を平易に説明する他、測局、命理、風水への応用法を解説します。 |
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