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如何是仏「乾屎橛」 なぜ糞の棒が仏なのか 仏胎・如来蔵 張明澄講義《雲門禅》超仏越祖「餬餅」はゴマモチではない

如何是仏「乾屎橛」なぜ糞の棒が仏なのか


「雲門屎橛」は、「超仏越祖」に「餬餅」と答えた「雲門餬餅」に並ぶ、

雲門文偃禅師の問答のなかでも最も有名なものですが、実は、あまり理解されていない「公案」です。

 

無門関第二十一則雲門屎橛

原文)雲門、因僧問如何是佛、門云乾屎橛

読方)雲門、僧の如何なるや是れ仏と問うに因み、門云わく乾屎橛と

意味)雲門禅師が、弟子の僧から「仏とは何ですか」と問われたのに答えた。雲門が言った「乾いた糞の棒だ」


 どうして「仏」が「乾いた糞の棒」なのか、さっぱり判らないので「乾屎橛」を「糞かき箆」のことなどと言って、もっともらしく解説している人がいるそうですが、もちろん間違いです。

 また「公案」に正しい答えは無い、などと言う人もいますが、自分が理解できないからといって、「非理性」だの「超科学」などと言うべきではありません。

 

「雲門屎橛」を正しく理解するには、前回の「雲門餬餅」をおさらいする必要があります。

碧巖録第七十七則雲門餬餅

 僧が雲門禅師に問います。私たちは釋迦を超え達磨を越えなければならない、という話はどうしたものでしょうか。雲門がこれに答えて言うには、ただ一言「餬餅」。

 非常に有名な「公案」ですが、日本では「餬餅」の意味を取り違えているために、作者の意図が全く通じていません。

 日本人は「餅」という文字を見ると、日本の正月に食べる「お餅」のことだと思い込んでしまい、同じ漢字を使っていても、中国語と日本語では意味が異なることも忘れてしまうようです。

 日本で言う「餅」に近いものを中国語で探すと、「」というのがあり、これは「米」を蒸したものという意味ですから、日本の「餅」にかなり近い感覚のものです。

 それでは、「餬餅」の「餬」の意味はどうかと言うと、「胡」がついているから「胡麻」のことだと思い込み、「ゴマモチ」などと解説している本もあるようですが、勿論そのような意味はありません。

 「餬餅」の「餬」は、むしろ「糊口」の「糊」と同様の字義で、空腹を満たす食べ物、というものですが、「米へん」では無いことから分かるように、「米」以外の穀物でできた食べ物という意味があります。

 「餬餅」の「餅」も「米」以外の穀物でできた食べ物という意味で、日本の関西地方で言うところの「粉物(こなもん)」と言う言い方がピッタリします。実際、中国の家庭でよく食べられている「焼餅」というものがあり、小麦粉を捏ねて焼いた、チャパティやナンのようなもので、間食ではなく、毎日の主食として食べられています。

 つまり「餬餅」というのは、庶民的な「毎日の食事」の意味であり、人間にとって欠かせない大切な食べもの、ということになります。


これを読んだら、随分と分かり易くなったかと思います。

 「超仏越祖」とは「仏教の祖で仏陀である釋迦を超え、禅宗の祖・達磨を越える」ことですから、つまりは「悟り」を得て「仏」になる、仏になるために修行する、という意味であり、「餬餅」つまり「毎日の食事」が大切というのは非常に分かり易く、理解できることと思います。

 雲門禅師が「如何是仏」と問われて「乾屎橛」と答えた、これだけを見れば、何の事やら理解できず、聖なる仏が「乾いた棒糞」とは何事だ!と怒る人もいるくらいですが、わざとショッキングな事を言って、時には鼻を抓るとか、顔を引っ叩くなど、修行僧の頭を空っぽにさせて「悟り」に導く「頓悟」という方法だとも言われています。

 ユングの心理学では、仏教を深く研究し、「意識」と「無意識」の一致こそが「悟り」という状態であると結論づけています。すると「頓悟」とは、驚いた一瞬に「意識」のなかに「無意識」を作り出し、意識と無意識を一致させて「悟り」に導く方法、と考えることができ、案外合理的な修行法と言えます。

『無門関』には、作者の無門による注釈のようなものがついております。

雲門、因僧問、如何是佛。
門云、乾屎橛。
無門曰、雲門可謂、家貧難辨素食、事忙不及草書。
動便將屎橛來、撐門挂戸。
佛法興衰可見。
頌曰 閃電光 撃石火 貶得眼 已蹉過

無門曰く、雲門謂う可し、家貧にして、素食も辨じ難く、事は忙しく、草書するに及ばず。動(やや)もすれば便ち屎橛を將來して、門を撐(ささ)へ、戸を挂(ささ)える。       佛法の興衰、見るべきか。

頌に曰く、閃めく電光、石を撃つ火、眼を貶くし得て
已に蹉(つま)づき過ぎる

無門関の作者、無門が謂う。 雲門ならこう言うに違いない。家(寺)が貧しいからと食べ物もままならず、忙しくて文章を書くひまもない、と。

うかうかしていたら、糞の棒で門や戸口をふさいで戸閉まりとは。           仏法の衰退もここまで来たか。

頌(誉め言葉)のほうは、電光石火のひらめきだ。まばたきしている間に通りすぎてしまう。


 無門の解説はさらに分かりにくいもので、糞便まで持ち出して修行に利用しようとは堕ちたのだ、と言ったかと思えば、電光石火の閃き、と誉めそやしています。

 確かに、意外な言葉でショックを与え、「悟り」に導く「頓悟」の方法としては、「仏が乾いた糞棒」とはいかにも衝撃的で、1000年を経てもいまだに議論されるほどです。

 しかし、それだけが雲門文偃の真意だったのでしょうか。仏が「乾屎橛」だと言ったのは、驚かせるためだけだったのでしょうか。

 ここで前回の話、「超仏越祖」に「餬餅」、つまり「仏になるための修行」と言う問いに対して「毎日の食事」と答えたことと、関連性は無いのでしょうか。

 仏になるための修行が「食事」で、仏とは「糞の棒」だと言うのですから、非常に一貫性のある話だと理解できるはずです。つまり、ただ単にショックを与えるための言葉ではなく、きちんと筋の通った話として理解すべきかと思います。

 もうひとつの解釈として「仏胎」や「如来蔵」との関係も考えるべきです。「餬餅」と「屎橛」、共に人の体に入って来て出て行くものですから、人体の一部でもあります。

 「如来蔵」という考え方は、人間には、誰でも生まれつき仏様の種(仏胎)が宿っており、人間がよろいのように身に付けてしまった心のカラを破り、本来のあるべき姿に立ちもどれば、その仏様と一体になることができる、というものです。守護仏1-守護仏による救済  仏胎・如来蔵・紫薇斗数

 「乾屎橛」を「糞かき箆」とするのは、かつて日本で主流だった解釈です。なぜそうなってしまったかと考えると、「仏」と「糞」が同じと言われることに耐えられず、逃げ道を探した結果と言えるかも知れません。「糞かき箆」なら、「便秘で困ったときに救われる」とか何となく合理的な解釈が成り立ちそうに見えます。

 日本の大乗仏教では、「一切衆生悉有仏性」(大般涅槃経)を基にして、「草木国土悉皆成仏」(天台宗)とか「山川草木悉皆成仏」(梅原猛?)など、「あらゆるものに仏性がある」という考え方を根幹にするようです。

 何にでも「仏性」があるなら、「糞」にも「仏性」がある、ということになり、「仏とは何か」と聞かれたら、何と答えても正解ということになってしまいかねません。しかし、「仏」と「仏性がある」こととは、そのままイコールではありませんから、必ずしも正解とは言えません。




前回の記事

張明澄講義《雲門禅》

超仏越祖「餬餅」はゴマモチではない


張明澄先生の《員林学》講座《雲門禅解説》全七回(DVD発売中)より


碧巖録第七十七則雲門餬餅

原文)僧問雲門。如何是超佛越祖之談。門云餬餅。

読方)僧が雲門禅師に問う。如何なるや是れ超仏越祖の談。門云く、餬餅。

意味)僧が雲門禅師に問います。私たちは釋迦を超え達磨を越えなければならない、という話はどうしたものでしょうか。 雲門がこれに答えて言うには、ただ一言「餬餅」。


 非常に有名な「公案」ですが、日本では「餬餅」の意味を取り違えているために、作者の意図が全く通じていません。

 日本人は「餅」という文字を見ると、日本の正月に食べる「お餅」のことだと思い込んでしまい、同じ漢字を使っていても、中国語と日本語では意味が異なることも忘れてしまうようです。

 日本で言う「餅」に近いものを中国語で探すと、「」というのがあり、これは「米」を蒸したものという意味ですから、日本の「餅」にかなり近い感覚のものです。

 それでは、「餬餅」の「餬」の意味はどうかと言うと、「胡」がついているから「胡麻」のことだと思い込み、「ゴマモチ」などと解説している本もあるようですが、勿論そのような意味はありません。

 「餬餅」の「餬」は、むしろ「糊口」の「糊」と同様の意味で、空腹を満たす食べ物、という意味がありますが、「米へん」では無いことから分かるように、「米」以外の穀物でできた食べ物という意味があります。

 「餬餅」の「餅」も「米」以外の穀物でできた食べ物という意味で、日本の関西地方で言うところの「粉物(こなもん)」と言う言い方がピッタリします。実際、中国の家庭でよく食べられている「焼餅」というものがあり、小麦粉を捏ねて焼いた、チャパティやナンのようなもので、間食ではなく、毎日の主食として食べられています。

 つまり「餬餅」というのは、庶民的な「毎日の食事」の意味であり、人間にとって欠かせない大切な食べもの、ということになります。


 「超仏越祖」、つまり、「釋迦を超え達磨を越えるには」、という問い掛けに対し、「毎日の食事」と答えたわけで、別に毎日食べなくても困らない正月の「おモチ」や、況してや「ゴマモチ」などと言うふざけた答えをしたのではありませんし、よく言われるような、「黙れ!」という意味でもありません。

 今まで、「超仏越祖」の答えが「ゴマモチ」では意味が分からず、「禅」などと言うものは、到底理解できるものではないし、「悟り」など得られるわけが無い、と諦めておられた方々も、「餬餅」が「食事」のことだとわかれば、「禅」もそれ程難しいものでも無いのでは?と思える筈です。


 日本に伝わっている「禅」は、すべて「中国禅」であり、テキストはすべて「漢文」、つまり「中国語」で書かれているのに、中国語の漢字の意味をまるで理解せずに「禅」を語ってきた先生方が、説明できない事柄は何でも「非理性」などと言って「胡麻」化してきました。

 故張明澄師は、全中国人のなかでも飛びぬけて、「漢文」と「日本語」の読解力と表現力に優れ、しかも、漢学・仏教・道教・五術の専門家ですから、そのような間違いを犯すことがなく、最も難解で高レベルと言われる「雲門禅」を、誰でも理解できるよう、平易に解説されました。


張明澄講義《員林学》講座 DVD 儒 道 易 禅 経世済民


第33回~39回、雲門禅解説 Ⅰ~Ⅶ・板書資料付

            全七巻セット 200,000


第9回~16回、 経世済民書 Ⅰ~Ⅷ・原文資料付

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第17回~24回、中国正統道教学大系 Ⅰ~Ⅷ

             全八巻セット 350,000


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