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吉本隆明氏を追悼する 十二縁起ー空と疎外-「悟り」へ  

吉本隆明氏を追悼する 十二縁起ー空と疎外-「悟り」へ  

2019年03月16日 | 仏教

吉本隆明氏を追悼し、過去記事を再掲します。

 

2012年3月16日、詩人・評論家の吉本隆明が87歳で死去した。1924年、東京の下町・月島の船大工の家に生まれた吉本は、戦後は40代半ばまで会社勤めをしながら、文筆業と二足のわらじの生活を送る。この間、労働争議が原因で会社をやめ、失業した経験も持つ。大学から教職に誘われることもあったが、「学生時代、ろくに講義を聞かなかった僕が、講義する側に回るなんて滑稽すぎます」との理由から断り続けたという(『週刊文春』2000年10月12日号)



2008-12-26 

十二縁起ー空と疎外-「悟り」へ‏                掛川掌瑛


 仏教の開祖、お釈迦様は「一切はみな苦である」と説き、その原因を「十二縁起」というコンテンツ(項目、目次)で示しました。
 「縁起」とは「空」のことであり、「空」とは「関係」(の認識)ということですが、「同時的相互関係」と「前後的因果関係」のなかでは、主に「前後的因果関係」に属するもので、次の十二の段階に分けて表します。
     
 無明→行→識→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老死


 これらはさらに、過去、現在、未来に分けられ、それぞれに「因」と「果」があります。 

 無明・行・・・・・・・・・・・・・過去二因  
 識・名色・六入・触・受・・・現在五果
 愛・取・有・・・・・・・・・・・・現在三因
 生・老死・・・・・・・・・・・・・未来二果
 
 ある男女が愚かな(無明)行為(行)をします。これが「過去二因」であり、これによって、新しい生命(識)が生まれ、その肉体に名前がつけられ(名色)、感覚器官(六入)によって外界と接触(触)し、いろいろ感じて受け止め(受)、「現在五果」となります。
 「現在五果」とりわけ感受(受)によって愛着(愛)がおこり、ものごとに対して執着(取)し、執着したものを所有(有)したがり、これが「現在三因」となります。
 自分の「現在三因」は、自分の「未来二果」を導くもので、生きて(生)、老いて死んで(老死)ゆきます。
また同時に次の世代にとっては、前の世代の「現在三因」が自分の「過去二因」の一部分でもあります。
 
 これらはすべて「苦」の原因であり、「苦」は八種類に分類されます。

 「生苦」とは生きる苦しみ。
 「老苦」とは老いる苦しみ。
 「病苦」とは病気の苦しみ。
 「死苦」とは死にゆく苦しみ。
 「愛別離苦」とは愛するものを失う苦しみ。
 「怨憎会苦」とは嫌な人と会わなければならない苦しみ。
 「求不得苦」とは欲しいものを手に入れられない苦しみ。
 「五蘊盛苦」とは生理的、心理的欲望が強すぎる苦しみ。

 以上を「八苦」といいます。これらは、基本的に人間である限り逃れられない苦しみと言えます。 
 「苦」の始まりは「過去二因」にあり、なかでも「無明」が「苦」の根本的な原因と言えます。 

  
 生命体(生物)は、それが高等であれ原生的であれ、ただ生命体であるという存在自体によって無機的自然にたいしてひとつの異和をなしている。この異和を仮に原生的疎外と呼んでおけば、生命体はアメーバから人間にいたるまで、ただ生命体であるという理由で、原生的疎外の領域をもっており、したがってこの疎外の打消しとして存在している。この原生的疎外はフロイドの概念では生命衝動(雰囲気をも含めた広義の性衝動)であり、この疎外の打消しは無機的自然への復帰の衝動、いいかえれば、死の本能であるとかんがえられている。(吉本隆明著『心的現象論序説』より)

 「生命体」の定義は、現代の生物学でも、さほど定かではありませんが、細胞を有し、細胞分裂によって子孫を増殖し、いつか必ず死ぬもの、という定義が、概ね妥当と考えられます。
 人類に限らず、生命体でさえあるなら必ず、生命衝動つまりは子孫を残そうとする本能を持っており、生命体が生きるということは、子孫を残すこと、すなわち、新たな異和を生み出すことと、あとは死に向かうことです。
 つまり、生命体とは、生まれながらに、自然と「疎外」の関係にある存在です。

 「十二縁起」では、人間は生まれて「識」を持ったときから、「名色」「六入」「触」「受」を通じて「業」を貯えるようになります。
 「業」とはその人の考えたこと(意業)、やったこと(身業)、話したこと(口業)の記録であり、「三業」ともいいます。

 自分の、ある人に対する愛着(愛)は執着(取)を産み、さらにその人を所有したい気持ち(有)になります。これが「現在三因」であり、自分にとっては「未来二果」の原因であるとともに、次の世代にとっては「過去二因」つまり「無明」と「行」にあたる、ということになります。

 「愛」「取」「有」とは、要するに欲望のことですから、性欲に限らず、人間にとって「苦」の大きな原因となります。
 
 原始的な社会では、人間の自然にたいする動物的な関係のうちから、はじめに自然にたいする対立の意識があらわれるやいなや、人間にとって、自然は及びがたい不可解な全能物のようにあらわれる。
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 そうして、自然がおそるべき対立物としてあらわれたちょうどそのときに、原始人たちのうえに、最初のじぶん自身にたいする不満や異和感がおおいはじめる。動物的な生活では、じぶん自身の行為は、そのままじぶん自身の欲求であった。いまはじぶんが自然に働きかけても、じぶんのおもいどおりにはならないから、かれはじぶん自身を、じぶん自身に対立するものとして感ずるようになってゆく。狩や植物の採取にでかけても、住居にこもっても、かれはじぶんがそうであるとかんがえている像のように実現されずに、それ以外のものをもって満足しなければならなくなる。

(吉本隆明著『言語にとって美とはなにか』より)

 人間が「識」を持ち、やがて具体的な欲求を持って自然に働きかけるようになると、それが思いどおりにはならない、というジレンマにさいなまれるようになります。
 「動物的な生活では、じぶん自身の行為は、そのままじぶん自身の欲求であった。」
 つまり、知っているとおりに行動できるのですから、「知行合一」ということができ、仏教ではこれを「悟り」といいます。

 ところが、人間の行動は次第に思い通りにはゆかないようになり、「じぶん自身を、じぶん自身に対立するものとして感ずるようになってゆく。」
 つまり、自己対象化(自己実現)をはかる過程で「疎外」されることになりました。
  
 全自然を、じぶんの〈非有機的肉体〉(自然の人間化)となしうる人間だけがもつようになった特性は、逆に全人間を、自然の〈有機的自然〉たらしめるという反作用なしには不可能であり、この全自然と全人間の相互のからみ合いを、マルクスは〈自然〉哲学のカテゴリーで、〈疎外〉または〈自己疎外〉とかんがえたのである。
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 ところで、〈死〉んでしまえば、すくなくとも個々の人間にとって、全自然がかれの〈非有機的肉体〉となり、そのことからかれのほうは自然の〈有機的自然〉となるという〈疎外〉の関係は消滅するようにみえる。そしてたしかに個人としての〈かれ〉にとっては消滅するのだ。しかし、生きている他の人間たちのあいだではこの全自然と全人間の関係は消滅しない。
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 マルクスの〈自然〉哲学のなかに人間と自然の相互関係を表象するものとしてあらわれる〈疎外〉または〈自己疎外〉の概念は、本質的な、それゆえ不変の概念であり、社会がかわればかわるというふうにはかんがえられてはいない。しかし、現実の社会の経済的なカテゴリーとして表象される〈疎外〉(疎外された労働)は、社会がかわれば消滅することもでき、またそれを人間社会の自己目的としうる概念としてあらわれている。

(吉本隆明著『カール・マルクス』より)
 
 個体としての人間は、生まれてそして死ぬ、という形でしか繰り返しませんから、「死」によって自然との異和を解消し、「疎外」の関係も消滅するはずです。
 ところが、マルクスによれば、人間が他の動物と異なるのは「類」という概念を持っているところにあります。
 「類」の概念とは、自分の属する人類という種と、他の動物とを区別できる、という認識能力であり、人間として育ちさえすれば、誰にも教わらなくても必ず持つようになるものです。
 動物も個体としては自己感情を持っており、自己を対象化することも可能ですが、種属としては自己を対象化できません。つまり猫は、自分を“タマ”という個体として認識することは可能ですが、猫という種属として認識することはできません。
 かくして、「疎外」は、全自然と全人間との本質的な関係であり続けることになります。



 伝統的インド思想の重心である「我」(アートマン)は、絶対的自性を不可欠の条件とします。
 「諸法無我」(あらゆる存在や現象には「我」がない)といって「我」を否定する仏教は、あらゆる存在や現象は「関係」であり自性を持たない、という「空」の理論によって「我」を否定するのに成功したかに見えました。
 しかし、伝統的インド思想の中には、仏教も認めている「輪廻」の思想があります。
 「輪廻」の思想は、誰もが自分の「業」のよしあしによって、「六道」という六つの世界で生まれ変わり、死に変わる、という考え方です。
 「六道」とは、
 「天」は、悠々自適で神仙のように閑かで、いこいと安らぎとゆとりが十分あるか、もしくは、他人にはない楽しみを得る世界。
 「人」は、ごく普通でよくもわるくもない平凡な世界。
 「阿修羅」は、手に入らない目標を必死に追い掛けたり、勝負にこだわったり、嫉妬したりする世界。
 「畜生」は、人間ならするはずのないことをする世界。
 「餓鬼」は、生活の最低レベルすら得られない世界。
 「地獄」は、死に直面している世界。
 
 この「六道」の間を行ったりきたりすることを「輪廻」といい、これらの中のいずれに行くかは、その人の「業」によって決まります。しかし、仏教では「我」を否定していますから、「我」に代わって「業」を宿し「輪廻」する主体がなければなりません。
 そして、この問題は「唯識論」によって見事に解決されます。
 人間の「識」は、「『般若心経』漢訳とサンスクリットの違い」のところで説明したように、「受識」(前五識ー眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)「想識」(意識、第六識)、「行識」(未那識、第七識)、「唯識」(阿頼耶識、第八識)に分類されます。

 「唯識」とは「業」を宿すところであり、外界からの情報は、「受識」から入った後、それがそのまま「想識」のイメージになるわけではなく、「唯識」の中の「業」と組み合わせて、ようやく「想識」に表象作用がおこり」、イメージが形成されます。
 また同じように怒ったとしても、我慢する人もいれば、喧嘩をしかけたりする人もいます。つまり同じイメージが形成されても、そのまま「行識」によって意志が形成されるのではなく、「唯識」の中の「業」と組んではじめて「行識」によって意志が形成されるからです。
 「行識」によって意志が形成されると、意(思う)、語(話す)、身(行動する)が発動し、これらがまた記録されて「業」になり、「唯識」に貯えられます。
 「我」(アートマン)は絶対的な自性を持ち、「梵」(ブラフマン、宇宙の根本)と同一といいますから、「業」を貯えなくても存在するはずです。
 「唯識」は「空」に依存する存在や現象のひとつですから、自性というものはなく、なんらかの「業」を宿してはじめて「唯識」ということができます。

 たとえば、生まれたときから植物人間である赤ん坊は、親の「業」の結果であり、この赤ん坊自身には「業」はありませんし、これからも「業」はおこりません。
 「業」がなければそれを「唯識」に貯えることはできませんから、この赤ん坊には「唯識」はありません。
 また、この赤ん坊に「我」があるかどうか誰にもわかりませんが、「業」がないのは確かですから、仮にもし「我」があっても「輪廻」の主体にはなれません。つまり「輪廻」の主体は「唯識」であり、「我」ではありません。
 「我」と「唯識」の違いは明らかであり、「唯識」とは、「我」を違う名前でいっただけのものではありません。
 「唯識」とは「業」を貯える機能(関係)であり、最初から「唯識」という自性があるわけではありません。つまり「唯識」もまた「空」であるといえます。
 この世のすべての存在と現象は必ず「空」であり、ただ、「我」だけが絶対的自性といいますから「空」とはいえません。つまり、「我」はこの世に存在することができません。

 仏教の宗派のなかには、「輪廻」を認めてしまうと、どうしても「我」を否定しきれないため、苦し紛れに「輪廻」を否定するものもあるようです。
 しかし、「十二縁起」は、「我」によらない「輪廻」を説いたものと考えられますし、「唯識」論によれば「輪廻」の主体は「我」ではなく「唯識」ですから、「我」を否定するために「輪廻」をも否定する必要はありません。


 先ほどの例に挙げた、生まれたときから植物人間の赤ん坊についてもう少し考えますと、この赤ん坊は、自分を人類という種属として対象化することはできません。つまり「類」という概念を持つことができませんから、人間としての「疎外」もおこりません。ただ生命体としての原生的な「疎外」だけは発生しますが、それは普通の胎児が母親の胎内にいるときと、それほど違いはありません。

 人間と動物との違い、つまり人間の人間たるゆえんは、「類」という概念を持つことにあり、この「類」という概念は、別に学習しなくても、人間として生活さえしていれば、必ずそなわるものであり、同時に、全人間と全自然との「疎外」関係を、ひとりの人間としても共有することになります。もちろん、ひとりの人間にとっては、他の人間や社会も、おおきく自然の一部ですから、やはり「疎外」の関係が生じます。
 「労働」とは、自然に対して、何らかの働きかけを行い、人間にとって有用なもの、つまり「価値」を得ることですが、社会の生産力が大きくなるにつれ、働きかける相手は、農場や工場などのように人間化された自然であり、生みだすものは、もっぱら「商品」ということになります。
 ところが、「価値はつくられた商品に附着する表象であって、労働や労働者に附着するものではない」「労働する人間はこちらがわにあるのに、価値はいつもあちらがわに、いいかえればつくられた商品に附着しており、これを相互に(つまり自然と人間に)架橋するものが労働であるというにほかならない。」(吉本隆明著『カール・マルクス』より)
 これが「疎外された労働」の概念であり、マルクスは、「疎外」からの解放は、労働者の解放という政治的なかたちであらわされるほかはないと考えました。
 しかし、このような、マルクスの考えは、後のマルクス主義者にはほとんど継承されず、政治的、経済的なカテゴリーばかりが強調され、マルクスが予期しなかった社会主義国家の建設は、人間の解放にも、労働者の解放にも結びつきませんでした。

 「マルクスの自然哲学の本質にある〈疎外〉または〈自己疎外〉の概念は、レーニンもスターリンも、毛沢東もしらなかった。しかしそれは読んだことがなかったという明瞭な理由をもっている。」(吉本隆明著『カール・マルクス』より)



 仏教の「輪廻」では、その主体は「唯識」であり、人間は人間として生活さえしていれば必ず、「業」を「唯識」に貯え続けます。
 これが「苦」の原因ですが、ならば、子孫を残さずに「死」ぬとか、痴呆症になってしまえば「輪廻」から逃れられそうに思えます。
 ところが、人間は「類」という概念を持った動物であり、ある個体としての人間が「死」んでも、他の生きている人間は、全人間と全自然との「疎外」からは逃れられません。つまり、人間であればどの人間も、この「類」という概念を、いつのまにか引き継いでしまうのです。

 同様に、人間であるかぎり、つまり人間として生活したことがあれば誰でも、「業」を「唯識」に貯えますから、やはり「輪廻」から逃れられません。
 重度の認知症の人は、「業」がないかのように見えますが、自分が人間であるという意識までは、なかなか失いませんから、「業」から解放されたとは言えません。
 事故などで植物状態の人は、「唯識」が壊れていれば「業」も消えてしまったかも知れませんが、かつては「業」を貯えていたのですから、生まれつき植物状態の赤ん坊と同じとは言えません。
 
 仏教では、人間を「苦」から救済する方法として、「悟り」という概念を発見しました。
 「悟り」とは、「知行合一」、つまり、知っているとおりに行動できるということです。


 まだ理解できていない人もいるかも知れないので、もう少し説明しておきますと、「悟り」とは「苦」から脱出することであり、そのためには「煩悩」を滅しなくてはいけません。「煩悩」から離れることが「悟り」であることには異論がないでしょう。
 「煩悩」とは何かといえば、要するに、「分かっちゃいるけどやめられない」「分からないのにやってしまう」ということです。
 「悟り」に達した人は、やってはいけないことはやらないし、やらなければならないことはきちんとやります。
 「戒律」を守る人との違いは、決して無理や我慢をしないで、ただ知っているとおりに行動できることです。

 もともと、人間以外の動物は、知っているとおりにしか行動できませんから、生まれつき、「悟って」いるともいえます。
 また、原始時代の動物的な人間は、やはり知っているとおりに行動していたと考えることができますから、「悟り」の状態にあったことになります。
 ところが、人間の社会は発展し、人間の知識や情報も増大し続けていますから、知っているとおりに行動することは非常に困難なことになりました。
 また、知っているとおりに行動できたとしても、もっている知識が間違っていたら、むしろ行動できないほうが良い場合もでてきます。

 たとえば「うつ病」の人に、「がんばれ」などと励ましますと、自殺してしまうことがあります。この場合、なんら悪気もないし、普通なら、元気のない人を励ますのは良いことですから、何も問題がないのですが、病気に対する知識がないと、善意が人を殺してしまうケースがあります。
 「悟り」を得たからといって、素人に「うつ病」の診断や治療ができるわけでもありません。病気の治療は専門医の仕事であり、悟った素人よりは、悟っていない専門医のほうが、はるかに有用なのは当然です。
 つまり「悟り」が役に立つのは、正しい知識を持っている場合だけであり、本人が救われるだけのことなら、自殺か安楽死でも同じようなものです。実際、仏教では「殺生」は厳に禁じていますが、自殺については必ずしも禁じていません。

 しかし、「悟り」は「煩悩」からの脱却であるとともに「輪廻」からの解脱という重大な役割を負っています
 既述のように、個体としての人間の解放は、「死」つまり自然への回帰によって達成されますが、全人間と全自然との「疎外」は人間が生き残っているかぎり解消されません。
 「輪廻」の主体は「唯識」であり、「唯識」が「業」を貯えることが「苦」の原基であり、人間だけが「唯識」を持つことは、人間だけが「類」という概念を引き継いでいること、つまり「自己疎外」をおこすことと同義であると考えられます。

 「輪廻」からの解脱を達成するためには、全人間の「自己疎外」を解消すること、つまり「悟り」に導かなければなりません。
 よく「悟り」をゴールと考えている人や宗派があるようですが、むしろスタートというべきで、「悟り」を得るなら、同時に正しい知識と智慧をもって人間を導かなくてはなりません。これは、「四聖諦」のうちの「道諦」すなわち「八正道」を実践することによって達成されるものです。
  
 仏教の原点はお釈迦様の教えであり、「四諦」(四聖諦)と「四印」にすべてが凝縮され、「十二縁起」に集約されています。
 「有」論も「空」論も「唯識」論もすべてここからはじまり、「唯識」論をもって「四印」が真となったことは、ここまで説明してきました。
 
 『般若心経』にみられるように、「悟り」といえば、「般若」という大きな智慧の完成とともに語られます。何故なら、経典を読む人は「悟り」によって全人間を救済しなければなりません。

 初期経典によると、お釈迦様は実に多くの人々を「悟り」に導いたとされてます。それらは、修行者でも学者僧でもなく、多くはごく普通の村人たちでした。しかも、その「悟り」はわずか半日の間に得られたものさえあったとされます。
 逆に仏弟子のなかには、「悟り」に数十年もかかった者もあるといいます。つまり、動物や原始人の例をあげるまでもなく、「悟り」とは知っているとおりに行動することですから、知識が少ない人ほど、むしろ「悟り」に近いもので、ただ清浄な心さえあれば「悟り」によって救済されます。
 

 大乗仏教では、人々を仏法に導くことができる人を「菩薩」、人々を「悟り」に導ける人を「如来」として、自分で悟った人つまり「阿羅漢」よりも上位においています。何故なら仏教の目的は、全ての人間を「悟り」に導くことだからです。

 小乗仏教側では、これを批判しているようですが、「菩薩」や「如来」というのは一種のシンボルであり、「釈迦如来」を除けばその出身もあまり定かではありません。
 「観音菩薩」も最初は仏弟子のなかの若造と「大本般若心経」などで描かれていますが、次第に性格を変え、インドでは「明妃」の化身、中国では「媽姐」の化身、といった性格を与えられ、非常に女性的な姿になっています。
 「如来」や「菩薩」のなかには、もとは仏弟子の「阿羅漢」だった人もいるかも知れませんから、あまりそこは争うところではありません。
 
 それでは、日本の「大乗仏教」に対する批判は不当かというと、必ずしもそうとは言えません。なにしろ肝心な「悟り」という実績が達成されていない上に、「悟り」とはどのような状態かを提示することすらできません。
 おかげで、修行中によくある、○○如来に遇ったなどという、幻覚や妄想を「悟り」と思い込んでいる人も少なくありません。

 また、既述のように「輪廻」を否定したり、「四諦」を無視したり、といった学者や宗派もあるといいます。
 こういった批判に対して、「大乗仏教」側も答えられると良いのですが、たとえば、先日の、スマナサーラ長老による、“『般若心経』=「空即是色」は間違っている”論に対して、満足な反論を加えているのは、残念ながら当ブログだけです。
  
 もうひとつ、「如来蔵」に対する批判についても言及しておきたいと思います。
 よく、「如来蔵」は「本覚」思想とセットにして、人が生まれながらに自性を持つという信仰で、「諸法無我」や「縁起」論と矛盾するなどと、いわれます。
 しかし、第一に「如来蔵」は、その発生は知りませんが、発展段階では「本覚」とは無関係であり、セットで批判されても、互いに知り合いではありませんから、ここでは「本覚」のことは言いません。「本覚」の側で反論できないなら、批判があたっているとみなされても仕方がありません。

 「如来蔵」に限って言うなら、人が生まれながらに「自性」を持つというような考え方は全く当てはまりません。

 その一番分かりやすい証拠を挙げるなら、ある人の「如来蔵」(私どもでは、もっぱら「守護仏」と呼んでおります)は、その人の生年月日時によって決まるという点です。
 厳密に言うなら、決まるのではなく、推定できる、というべきかも知れませんが、生年月日時が正確であれば、滅多に間違えることはないので、決まる、といってもあまり問題はありません。
 つまり、ある人の「如来蔵」は、その人のタイプを表すもので、出生時の時間からの影響が人になんらかの影響を与えているものと考えることができます。

(時間がものごとに影響を与え、ものごとの性質を規定する、という考え方は、《西遊記》に見る《皇極経世》の時間単位と《子平》仏教における「子平」の効用「分別」は「苦」の原因 といった記事で紹介しておりますので、ご参照ください。)


 「十二縁起」のところで説明したように、人の「唯識」は「空」であり、生まれたときにはまだ「業」が貯えられておらず、生活するのとともに貯えられてゆくものです。
 「類」概念やそれにともなう「自己疎外」は、いつのまにかどの人間にも引き継がれるもので、つまり「輪廻」してしまいます。
 「唯識」にも前世の「業」が「無意識」というような形で刷り込まれているのかも知れませんが、前世の記憶を持っている人などほとんど滅多にいませんし、いても実証されたことはありませんから、実際に「輪廻」するのは、「類」概念だけと考えたほうがよいでしょう。

 ところが、「如来蔵」は、出生時間からの影響で、その人の「唯識」のタイプが、30%程度(「子平の効用」参照)規定されるものと考えられますから、もともとの「自性」などというものではなく、むしろ「空」そのものと理解すべきです。

 また「時間」によって「命」が決まるとか、影響を受ける、という考え方は、統計というか「経験」によって、実証とまではいえませんが、裏打ちはされており、「時間」を扱ったことのない「科学」から肯定も否定もされることはありません。

 とはいうものの、これまで日本では、「如来蔵」が実際に行われているという話はあまり聞きません。
 一番似ているのが、真言宗の「結縁灌頂」における「投華得仏」という儀式ですが、目隠しして曼荼羅の上に投げた花が、落ちたところの仏様が、自分の守り本尊にあたる、というものです。
 一昨年、衛星放送で「投華得仏」の実演をやっていましたが、予定した場所に花が落ちなかったので、ついていた坊さんが位置をずらしていました。花を投げたのが若い女性だったので、雰囲気は悪くありませんでしたが。

 
 ここまで、長々と、ややこしい話をお読みいただいた方は、おそらくは、仏の道を歩まれる方だろうと思います。
 すると、目指すものは「悟り」に違いありません。あるいはもう「悟り」を得た、という方もおられるでしょう。
 しかし、「悟り」は決してゴールではなく、むしろスタートであると述べました。
 自己の救済だけなら、合法な国に住み着いて、大麻でも吸って暮らしたり、死んでしまったりしたほうが、むしろ早くて楽なもので、実際、当麻寺(たいまでら)という寺が昔からあったり、即身仏などといった方法がとられてきました。

 しかし、この記事を最後まで読んでしまった人は、自己の救済だけを望むことはできないし、「悟り」をゴールにすることもできません。

 何故なら、あなたは、お釈迦様の時代の無知な村人ではないばかりか、知識や情報の量だけで言えば、お釈迦様をも上回るはずですから、どうしたって、自分だけでなく、全ての人間に「悟り」を得させて、全人類を救済すべく、「如来」を目指さなくてはなりません。

 自分の「守護仏」(如来蔵)が「菩薩」や「明王」の人は、「如来」でなくても良いではないか、と思うかもしれませんが、「菩薩」や「明王」も常に修行中であり、「如来」を目指すものです。

 

 

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