
この文章の主旨は、題名の通り「色」は「物質」とか「物質的現象」とか訳されているのは間違い、というもので、これは当ブログの「『般若心経は間違い』の間違い」などの記事で主張してきた内容と符合するものです。
この記事のなかで「牧牛経」について書かれた部分があり、下記に引用します。
仏 教 の 修 行 者 (比 丘 ) の 修 行 生 活 の 心 得 を, 牛 群 を 放 牧 し て 暮 ら す 牧 牛 者
(gopalaka) の 心 得 に 喩 え る 2 経 典 が あ る (」V .33 MahE −
gop 五taka−s.uttarp 牧 牛 者 大 経 Ml .
pp.220− 224 ;A .Ekadasaka−Nipita 18 [
v 「1’Gopala −suttarp 牧 牛 者 経] A .V .pp.347−353 ). と もに
同 じ 内容 で あ る が , 後 者 に は 前者 の 最 初 の 4 行 と末 尾 の 2 行 が な い . こ れ に 対応
す る 漢 訳 の 3 本 もほ ぼ 同趣 旨 で あ る 〔求 那 跋 陀 羅 訳 『雑 阿 含経』 巻 第 47 (1249 : 牧牛
者経 ): T.2.No .99,342c−343b , 鳩 摩 羅 什訳 『仏 説放 牛 経 』: 7:2.No .123,546a−547b, 僧 伽提 婆
訳 『増壱 阿 含経 』 巻 46,放 牛 品 第 49.1 : T.2.N 。 .125,794a−795a). こ こ で は ま ず心 得 の 悪
い 例 11 箇 条 か ら説 き始 め て , 次 に そ の 反 対 に よ い 心 得 11 箇 条を 列 挙 して 説 法 を
締 め 括 る . そ の 最 初 が と もに 「色 を 知る も の で な い (na nipa−iiiiO・h・ ti)」 と い う.
牧 牛者が 「色 を 知 る もの 」で な け れ ば な ら な い と い う 「色 」 と は , 註 釈 書 に よ
れ ば , 牛 の 数 を 数 え て , 逃 げ た 牛 を 探 し求 め , 自分 の 牛 か 他 人 の 牛 か を 確 か め る
た め の 「色」 で あ る . 牛 に つ い て 白 い ・赤い ・黒 い な ど と, 色 彩 (valna ) を 知 る
こ と に も 関連 し て い る (・IM .H .p.258,AA .V .pp.87−88). 一 方, 比 丘 が 知 っ て い な け れ
ば な ら な い 「色 」 と は , 広 義 の 色 で あ り, 次 の よ うに 説 か れ て い る .
ま た 比 丘 達 よ. ど の よ うに 比 丘 は 色 を知 る 者 (r(lpa−fiiiu) で は な い の か , こ こ に , 比 丘
達 よ . 比 丘が 何 で も色 で あ る もの : つ ま り
一切 の 色が 〔地 ・水 ・火 ・風 とい う〕 四 大 種
(四 大 要 素 catt5ri mah 巨一bhatEni) と 四 大 種 所 造 色 (四 大 要 素 に 拠 っ て い る 色 catunnafi ca
mahE −bhfitdnaipuadEya −nipan) と で あ る と, 如 実 に 悟 ら な い (na ppaj an5ti). (M .1.p.
22024堺
, A .V .p.3487−n ;『雑 阿含 経』 巻 47 (1249): T.2.342c25 −26 : 云 何 名 不 知 色 。諸 所
有色 , 彼 一切 四 大. 及 四 大 造 ;CtlT.2.546b2−3
, T.2.794a23”z5)
と. 牛 を放 牧 す る と 同様 に , 色 を 知 っ て い る こ と は 仏 道 を修 す る 場 合 に お い て も ,
第一に 必 要で あ る .
ここで思い出すのが、"『般若心経は間違い?』の間違い(十三)"で出てきた、「他人の牛を数える」という話で、以下のようなものです。
『法句経』「第一章」にある、「他人の牛を数える」という喩え、
「多義を誦習すと雖も、放逸にして正に従わずんば、牧の他牛を数うる如し、沙門の果を獲難し」
これを意訳すると、次のようになるのだそうです。 おそらく、漢訳からではなく、パーリ語からの訳ではないかと思います。
「たとえためになることを数多く語るにしても、それを 実行しないならば、その人は怠っているのである。−牛飼いが他人の牛を数えているように。彼は修行者の部類に入らない」(岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より )
「たとえ多くの教えを語っても、その実行者でなく、放逸な人であれば、牧童が他の人々(雇い主)の牛々を数えつつあるようなものであり、沙門の分け前(解脱)に与れない」(ダンマパダ(法句経)講義DVDカタログ(1)、講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)
「他人の牛」の意味が、多くの解説では「牧童が他人から預かった牛」とされているのですが、「他人から預かった」というのは、どこから来ているのでしょうか。長老の講義でも「他の人々(雇い主)の牛々」となっているようです。
「他人から預かった牛」なら、頭数を数えるのが当たり前であり、数えなかったら、牛を10頭預かっても、9頭返せば良いことになってしまいます。
銀行のように「他人の金を預かる」商売では、さらに深刻な問題になり、銀行が預金を数えなかったら、金融不安で誰も安心して暮らせません。
この場合、銀行員は「雇われ人」であり、自分が預かった金でもないのに、銀行の立場で、預かった金を数えなくてはなりません。
雇われている牧童という立場なら、雇い主の牛は、自分の牛と全く同じであり、「預かった牛」と同様に責任を持ち、常に頭数を数えて確認するのが当然です。
もし、自分の牛でないからと、頭数も数えないで、ほったらかしにしておくなら、牛主の損失は大きく、牧童はクビになるか、牛主が潰れてしまいます。
この「喩え」の意味は、「せっかく多くの教理を学んでも、戒律を実行せずに、やりたい放題にしていたら、修行の成果を得ることができない」ということの筈です。
すると、「他の牛を数える」というのが、「無駄に教理を学ぶ」ことに対応しているのですから、「他の牛を数える」こと自体が、無意味なことでなくてはいけません。
すると、「他の牛」というのは、「他人から預かった」り、「雇い主の牛」のような、当然、自分が責任を持つべき牛ではなく、自分と関係のない、他の牛飼いの牛か、他の牛飼いが預かった牛、でなくてはおかしなことになってしまいます。
つまり、牧童が、自分の責任を負っている牛を数えずに、自分と関係ない「他人の牛」の数をかぞえている、と考えないと、意味が通りません。
つまり、この喩えの意味は、
「せっかく仏教の教理を学んでも、学んだとおりに実行せず、やりたい放題にしていたら、牧童が自分の管理する牛を数えずに、自分と関係のない他人の牛を数えて、多いの少ないのと言っているのと同じようなもので、とうてい修行の成果を得られません」
と、なるべきです。
牧童が自分の管理する牛を数えるのは、仏教の修行者が、教理を学んでそのとおりに実行するのと全く同じことであり、それが悪いなどと誰が言うのでしょうか。
牧童が、他人の牛を数えて悪いのは、自分の管理する牛を数えないで、自分に関係ない他人の牛を数えて、うちの牛より多いとか少ないとか、無駄なことをやっていると、自分の牛の管理がおろそかになるからであり、これが、修行者が教理を学んでも実行しない場合と同じだ、といっている筈です。
もし「他人の牛」を預かっても、自分のものではないから、数える必要がない、というなら、そんな「不道徳」な話はありません。
このように考えると、この「他人の牛を数える」という「喩え」は、「間違っている」というべきですが、それは、お釈迦様が間違えたのでしょうか、それとも長老や、多くの解説者が間違えたのでしょうか。
漢訳から見るかぎり、「他人から預かった牛」とか「雇い主の牛」というニュアンスは全くありませんから、あるいは、パーリ語の原文が、そうなっているのかも知れません。
その場合は、お釈迦様の「間違い」か、「法句経」を伝承した人の「間違い」ということになります。
もし、何も「間違いはない」というなら、仏教は、銀行はじめ、あらゆる預託に関する職業を否定している、ということになりますし、借りたものに対する責任は負わない、ということになります。
仏教に限らず、「修行」とは、他人の子弟を預かって「修行」させるものなのに、「他人の牛」だから「数えない」、などという話があるものでしょうか。
それでは、どこかの国の「国技」のようになってしまいます。
「他人の牛を数えるな」というなら、「自分の牛を数えろ」というのが「対」になるべきで、つまり、「他人のことより、まず自分のことをしっかりやりなさい」という意味になるはずです。
「多義を誦習すと雖も、放逸にして正に従わずんば、牧の他牛を数うる如し、沙門の果を獲難し」
これを意訳すると、次のようになるのだそうです。 おそらく、漢訳からではなく、パーリ語からの訳ではないかと思います。
「たとえためになることを数多く語るにしても、それを 実行しないならば、その人は怠っているのである。−牛飼いが他人の牛を数えているように。彼は修行者の部類に入らない」(岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より )
「たとえ多くの教えを語っても、その実行者でなく、放逸な人であれば、牧童が他の人々(雇い主)の牛々を数えつつあるようなものであり、沙門の分け前(解脱)に与れない」(ダンマパダ(法句経)講義DVDカタログ(1)、講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)
「他人の牛」の意味が、多くの解説では「牧童が他人から預かった牛」とされているのですが、「他人から預かった」というのは、どこから来ているのでしょうか。長老の講義でも「他の人々(雇い主)の牛々」となっているようです。
「他人から預かった牛」なら、頭数を数えるのが当たり前であり、数えなかったら、牛を10頭預かっても、9頭返せば良いことになってしまいます。
銀行のように「他人の金を預かる」商売では、さらに深刻な問題になり、銀行が預金を数えなかったら、金融不安で誰も安心して暮らせません。
この場合、銀行員は「雇われ人」であり、自分が預かった金でもないのに、銀行の立場で、預かった金を数えなくてはなりません。
雇われている牧童という立場なら、雇い主の牛は、自分の牛と全く同じであり、「預かった牛」と同様に責任を持ち、常に頭数を数えて確認するのが当然です。
もし、自分の牛でないからと、頭数も数えないで、ほったらかしにしておくなら、牛主の損失は大きく、牧童はクビになるか、牛主が潰れてしまいます。
この「喩え」の意味は、「せっかく多くの教理を学んでも、戒律を実行せずに、やりたい放題にしていたら、修行の成果を得ることができない」ということの筈です。
すると、「他の牛を数える」というのが、「無駄に教理を学ぶ」ことに対応しているのですから、「他の牛を数える」こと自体が、無意味なことでなくてはいけません。
すると、「他の牛」というのは、「他人から預かった」り、「雇い主の牛」のような、当然、自分が責任を持つべき牛ではなく、自分と関係のない、他の牛飼いの牛か、他の牛飼いが預かった牛、でなくてはおかしなことになってしまいます。
つまり、牧童が、自分の責任を負っている牛を数えずに、自分と関係ない「他人の牛」の数をかぞえている、と考えないと、意味が通りません。
つまり、この喩えの意味は、
「せっかく仏教の教理を学んでも、学んだとおりに実行せず、やりたい放題にしていたら、牧童が自分の管理する牛を数えずに、自分と関係のない他人の牛を数えて、多いの少ないのと言っているのと同じようなもので、とうてい修行の成果を得られません」
と、なるべきです。
牧童が自分の管理する牛を数えるのは、仏教の修行者が、教理を学んでそのとおりに実行するのと全く同じことであり、それが悪いなどと誰が言うのでしょうか。
牧童が、他人の牛を数えて悪いのは、自分の管理する牛を数えないで、自分に関係ない他人の牛を数えて、うちの牛より多いとか少ないとか、無駄なことをやっていると、自分の牛の管理がおろそかになるからであり、これが、修行者が教理を学んでも実行しない場合と同じだ、といっている筈です。
もし「他人の牛」を預かっても、自分のものではないから、数える必要がない、というなら、そんな「不道徳」な話はありません。
このように考えると、この「他人の牛を数える」という「喩え」は、「間違っている」というべきですが、それは、お釈迦様が間違えたのでしょうか、それとも長老や、多くの解説者が間違えたのでしょうか。
漢訳から見るかぎり、「他人から預かった牛」とか「雇い主の牛」というニュアンスは全くありませんから、あるいは、パーリ語の原文が、そうなっているのかも知れません。
その場合は、お釈迦様の「間違い」か、「法句経」を伝承した人の「間違い」ということになります。
もし、何も「間違いはない」というなら、仏教は、銀行はじめ、あらゆる預託に関する職業を否定している、ということになりますし、借りたものに対する責任は負わない、ということになります。
仏教に限らず、「修行」とは、他人の子弟を預かって「修行」させるものなのに、「他人の牛」だから「数えない」、などという話があるものでしょうか。
それでは、どこかの国の「国技」のようになってしまいます。
「他人の牛を数えるな」というなら、「自分の牛を数えろ」というのが「対」になるべきで、つまり、「他人のことより、まず自分のことをしっかりやりなさい」という意味になるはずです。
南華密教では「経典」は肝心なところだけ読む、ということになっており、経典研究に嵌まり込んで、どれが仏陀の説いた真理だなどと言うことはしません。
しかし『雑阿含経』を読んでいる人なら「牧牛経」も当然読んでおり、『法句経』「第一章」にある「他人の牛を数える」という話の「他人の牛」が「他人から預かった牛」ではなく、「自分の牛では無い他人の牛」であることは、自明と言うべきです。
「色」とは「分別」であり「空」と等しく、「空」とは「疎外」であり「色」と等しいものです。
「疎外」とは「自他を分別」することであり、「自己疎外」とも言い、これが人類の「苦」であり、「空」と等しいものです。
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張明澄師 南華密教講座 DVD 有空識密 智慧と覚悟
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