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『般若心経は間違い?』の間違い(1)空即是色を悟る ~(9)龍樹・一切皆空のパラドクス~ (15) 苦=空=自己疎外 ~ 漢訳とサンスクリットの違い


『般若心経は間違い?』の間違い (二)
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)より
 
「第一章 色即是空と空即是色」(『般若心経は間違い?』P19〜85)

  般若波羅蜜多心経(玄奘訳の原文 P20〜21)
  同上 読み下し文       (P22〜23) 
 

 これは通常用いられているテキストで、特に問題はありません。ただ「受想行識」に「じゅそうぎょうしき」とルビを振っていますが、この「行」は「意志決定」や「行動」のことであり、「修行」のことではありませんから「こう」と読むべきです。
 かたや「行深般若波羅蜜多時」の「行」は「修行」のことですから、もちろん「ぎょう」と読んで当然です。

 読み下し文では、「このゆえに、空というなかには、色もなく、受も想も行も識もなし。」と、ここで文を区切っていますが、「是故空中」は「無色無受想行識」から「無智亦無得」まで全体に懸かっています。つまり、「識もなし。」と切らずに、「識もなく、眼もなく、・・・・」と文を続けるべきです。
 ここは重要なところで、スマナサーラ氏の読み間違いと考えると、『般若心経は間違い?』の「間違い」が分かって来るようにも思えます。
 
 
 
  般若波羅蜜多心経
 
 観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。
 照見五蘊皆空。度一切苦厄。
 

(“玄奘本”サンスクリットの邦訳ー中村元・紀野一義)
 求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。

(“玄奘訳”漢訳の邦訳ー張明澄・掛川掌瑛)
 観自在菩薩は深遠なる智慧を実践した時、存在するものの五つの構成要素はただの関係(空)であると明らかにして見せてくださり、求道のすべての苦しみや災難を無くすようにしてくれました。

 観自在菩薩は、求道者にして聖なる観音、とほとんど同じ意味です。
深遠な智慧の完成を実践していたときに、と、深遠なる智慧を実践した時、も別に変わりません。

 しかし、
「存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれらは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった
 と、言うのと、

「存在するものの五つの構成要素はただの関係(空)であると明らかにして見せてくださり」、とでは、意味がずいぶん違ってきます。

 「見きわめた・・・・見抜いた」
 
 というのは、観音が自分で修行して初めて見極めて見抜いたのであり、

 「明らかにして見せてくださり」(照見)
 
 のほうは、観音はもともと知っていたことを、衆生に対して明らかにして見せてくださった、という意味になりますから、観音の立場が全く違っています。さらに漢訳のほうは、その結果として、求道のすべての苦しみや災難を無くすようにしてくれました。と続けており、サンスクリットよりも漢訳のほうが観音をはるかに偉大なものとして描いていることになります。 
 
 
 「観自在菩薩」とは、「観音菩薩」とも言われるように、「虚心に人の話を聞くことができ、柔軟で囚われのない、自在な心で物事を観ることができる修行者」という意味です。「修行者」といっても、すでに「自在心」を持っており、つまりは「空」を悟っていますから、さらに、人々を「悟り」に導くことができ、いずれは「仏陀」とか「如来」になれる、非常に高度なレベルの修行者です。(部派仏教では認めていない、とかいうことは、ひとまずおいて下さい)

 「行深般若波羅蜜多時」は、「深遠なる智慧の完成の行を行ったとき」、つまり「お釈迦様が初めて悟りを開いたとき」と同じシチュエーションと考えたら良いでしょう。あるいは、そのときのお釈迦さまのこと、と考えても同じことです。 

 「照見五蘊皆空」は、「人間であること(自己と他者を分別すること)の五つの構成要素(苦の原因)は、すべて空であることを、明らかにして見せてくださり」であり、
 観自在菩薩が新たに見た、というのではなく、衆生に対して明らかにした、という意味です。
 「度一切苦厄」は、「一切の苦しみや災難をから人々を救うこととなりました」となります。
 この、二句を合わせた意味は、「肉体と心によって自己と他者とを分別することが苦の原因であり、自在な心で、物事に囚われない認識を持つことができれば、あらゆる苦の原因から解放される」ということになります。

 「人間であること」とは、「自己」と「他者」を「分別」できる「認識」を持つことができる、つまり「自己」という「意識」を持っていることが「人間であること」です。
 「自己」という「意識」を持つことで「類」という概念や「他者」という概念を持つことができるようになり、逆に「他者」という概念によって「自己」という「意識」が生まれます。

 それまで、自分の「肉体」は、自然の一部であり、自然が自身の一部だったのですが、「自己」という「意識」の獲得とともに、自然は、自分の身体ではなく、巨大な「他者」に変化します。
 また同時に、自分以外の人間たちも、「他者」であり、かつ「同類」と「認識」するようになります。
 このように、人間が「自己」を獲得することを「疎外」または「自己疎外」と言います。

 人間が、自然から「疎外」され、「自己」を「疎外」し「他者」から「疎外」され、ここから、すべての「苦しみ」が生まれます。
 「疎外」とはすなわち「苦」のことであり、「疎外」の原因は、人間に特有の、「自己」と「他者」という「認識」もしくは「意識」によるものです。
 つまり、「自己」と「他者」を「分別」するものは、「意識」であり、「意識」と「肉体」の集合体である「五蘊」こそは、「苦」の原因ということができます。
 そして、「五蘊」が「空」であるということは、人間が「現象」として「認識」できるものは、すべて「肉体」と「意識」によって生じる「関係」という「認識」であり、人間の「苦」とは、すべて「関係」でしかありません。 
  
 つまり「苦」とは「空」であり、「関係」でしかないと知ることによって、本質的な「苦」の原因を取り除くことができます。
 たとえば「自己」という「関係」は「他者」という「関係」によって生じており、「自己」と「他者」を対立させる「分別」こそが「苦」の原因であり、そのような「分別」を消し去ることで、「苦」を消し去ることができます。
 「分別」を消し去ることで「苦」も消えることは、誰でも理解できそうですが、その通りに行動しようとすると、なかなかできるものではありません。
 たとえば、同じお釈迦さまの教えを受け継いだ「仏教」なのに「大乗仏教」とか「小乗仏教」とか「部派仏教」とか、「分別」することによって対立し、さらに、自派や自派の教理に「執着」し、他派を排撃することに血道をあげ、かえって「苦」の原因を増やすことになりました。
 このようなことは、誰でも分かることで、「分別」や「執着」を捨てることで「苦」を一つでも減らすことができるのですが、「分かっちゃいるけどやめられない」のが人間なのです。
 ならば、「知っているとおりに行動できる」ようにすれば、人間の「苦」は消し去ることができる筈です。

 仏教では、「知っているとおりに行動できる」ことを「悟り」といいます。といっても、「知っていること」が間違っていたら、そのとおりに行動しても、かえって問題が大きくなるかも知れません。
 すると、「悟り」には「正しい知識」が、絶対に必要であり、そのため、「仏教」には、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」「四聖諦」などという「法」があり、「苦」の原因がどこにあり、どうしたら「苦」を消し去ることができるかを学ばなければなりません。

 なかでも、「五蘊」には、その他の「法」がすべて含まれており、「十二処」と「十八界」は、ただ「五蘊」を、より詳しく分類したものに過ぎません。

 また「十二縁起」は「五蘊」が「苦」の原因であることを、展開して、空間的、かつ、時間的に述べたもので、「五蘊」からはみ出すものではありません。
 「四聖諦」は、もっと具体的に「苦」の原因と解決法を示していますが、「五蘊」が「空」であることを完全に理解し、かつ、そのとおりに行動できれば、つまり「五蘊」が「空」であることを「悟り」さえすればよく、結局は「五蘊」から一歩も踏み出すものではありません。


『般若心経は間違い?』の間違い (三)
 
 
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)47頁より
(引用開始)
 日本語で書かれた『般若心経』の本を読むと、「観自在菩薩がサーリプッタ尊者に教えてあげた」という感じに解釈して書くものがほとんどです。
 しかし「観音様がサーリプッタ尊者に教えてあげた」というニュアンスは、経典のどこを読んでも見出せないのです。・・・・・あとから出てきてお釈迦さまの教えにケチをつけようとした大乗仏教では、サーリプッタ尊者をなんとかおとしめようと励みました。・・・・・日本の仏教学者の多くも、その習慣を引き継いでいて、サーリプッタ尊者が出てくると、自然に軽視する方向に思考を働かせようとするようです。
 ところが『般若心経』自体は、そこまで腹黒い作品ではないのです。
・・・・・・・皆さんが親しんでいるのは簡略な小品、それも玄奘三蔵(三蔵法師)が訳されたものです。・・・大品・・を読んだところで、観自在菩薩がサーリプッタ尊者に上から目線で教えてやったという話は全然書いてありません。

(引用終わり) 
  
 『般若心経は間違い?』の間違い(二)をお読みのかたは、もうお気づきのことと思います。
 「観自在菩薩がサーリプッタ尊者に上から目線で教えてやったという話」は、確かにどこにも書かれてはいないのですが、「照見」というたった二文字で、見事にそのニュアンスを表現しております。
 日本の『般若心経』解説書は、観音菩薩のほうが人間のサーリプッタよりは偉いはずだ、と何となく思っているだけですが、玄奘三蔵たちの仕掛けは、もっと確信犯的なものかも知れません。

 菩薩と阿羅漢とどちらが偉いか、昔から大乗と部派の間で争われてきたようですが、現代に生きる我々から見ると、全くどうでもよいことであり、仏教の魅力を失わせるだけのつまらない話です。
 
(P.49~50)
 色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
 色は空に異ならず。空は色に異ならず。色はすなわちこれ空なり。空はすなわちこれ色なり。受想行識もまたかくのごとし。

(引用開始)
 五蘊とは何か?
 色は、簡単に言うと私たちの「肉体」です。身体という物体、機械、細胞でできているものを、色といいます。肉体が常に増えたり減ったりしているのは、実体験としてよくわかりますね。

 受は感覚、感じることです。皮膚に触れたものを硬いとか熱いとか感じること、眼で感じて何かが見えること、耳で感じて何かが聞こえること、鼻で何かの香りを感じること、舌で感じて味わうこと。これらをひっくるめて受と言うのです。受はいつでも増えたり減ったりします。

 「想は、私たちが持っているさまざまな概念だ」と説明しています。
 ・・・・・この想も増えたり減ったりするものです。・・・
 行は、経典の説明では、喋りたい、考えたい、身体を動かしたいという気持ち、エネルギーのことです。これも増えたり減ったりします。
 識は、認識すること、知ることです。「認識のある・なし」は、すなわち生命と物体(無生物)の差です。認識するものは生命、認識しないものは生命ではありません。・・・・・
 生命には識というエネルギーがあって、それは認識するたびに変わっています。

(引用終わり)   
 
 
 スマナサーラ氏にとって、「空」とは「増えたり減ったり」することのようです。

 「色」は「肉体」と言いますが、我々の定義では「あらゆる存在と現象」であり、もっと厳密には「肉体を通じて感知しうるあらゆる存在と現象」ということになります。
 確かに「肉体」も「色」には違いありませんが、「肉体=色」とは言えません。
 「色」と「肉体」の関係をスマナサーラ長老式に言うなら、「肉体」は「色」であるが、すべての「色」が「肉体」とは限らない、ということになります。

 中村元さんの訳では、「色」とは「物質的現象」(岩波文庫『般若心経 金剛般若経』P11)とされており、それも間違いとは言いませんが、ある現象(存在)が「物質的現象」であるか、非物質的現象(心霊現象?)であるかは、観る(感じる)人の主観に関わることであり、自分の「肉体」も含めた、あらゆる「物質的現象」とは「物質的と感じられる現象」でしかありません。
 「物質的現象には実体がない」というのは、そのような意味であり、そうでないと、「物質的現象には実体がある」ことになってしまいます。
 
 「受」というのは「感受」のことであり、「感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)」という機能により、情報を取り入れることを言います。

 「想」というのは「表象」と訳されるように(岩波文庫『般若心経 金剛般若経』P11)、「受」によって取り入れた情報によって形成される「イメージ」のことです。
 スマナサーラ氏は「想」を「概念」であるとしています。しかし、「概念」とは、幻想、思想、理念などを意味する用語であり、「言語」によって表現されるという特徴があります。
 しかし、「想」とは、もっと生の未分化な「イメージ」であり、必ずしも「言語」で表現できるものとは言えません。
 
 「行」とは、「形成」のことであり、「意志」と訳されるように(同上)、情報によって「イメージ」が作られた後、何らかの行動をする、または、しない、という、「意思決定」や「意志形成」が働きます。

 「識」とは、「意識」のことであり、「知識」と訳されるように(同上)、あらゆる「思考」や「言行」の記録です。


 すると、「受」によって取り入れた「想」によって「行」が形成され、それが記録されて「識」となることが分かります。

 生まれたばかりの赤ん坊は、まだ「かゆい」とか「掻く」と言うような「概念」を持っていませんが、皮膚に何らかの刺激があったという情報を得て(受)、まだ言葉にはできませんが「かゆい」というイメージ(想)を持ち、やがて、かゆいところを「掻く」という行動を起こそうとするようになります(行)、このことは赤ん坊なりに意識に記録され(識)、やがて言葉を理解するようになると「かゆい」とか「掻く」という「概念」を持てるようになります。
 「言語」には「肉体言語」なども含まれますから、「かゆい」という言葉を知らなくても、「掻く」動作をすることで「かゆい」という自分の「イメージ」を他人に伝えることができます。このように言語化された「イメージ」を「概念」と言います。

 いったん「識」が貯えられますと、今度は「識」がイメージ(想)を作ったり、意思決定(行)を左右するようになります。
 例えば、同じ石を見ても、持っている知識によって、ただの石ころにしか見えないから放っておいたり、素晴らしい価値のある石だからと持って帰ろうとしたりします。
 また、思い込みで、冷たいものなのに触って熱いと感じたり、根元から切断した足の指先が痒かったり(幻肢痛)、というようなことが起こります。

 以上、「受想行識」についてのスマナサーラ氏の定義とはずいぶん違っていますが、もともと「受想行識」という用語は「中医学」から出たものであり、(『般若心経』−漢訳とサンスクリットの違い”参照)サンスクリットの『般若心経』ではどうか分かりませんが、漢訳『般若心経』に関する限りは、どうしても我々のような定義で読まなければなりません。

 サンスクリットでの解釈についても、中村元さんの訳語(岩波文庫『般若心経 金剛般若経』P11)とスマナサーラ長老の定義は、必ずしも一致しておらず、果たしてどちらが正しいかといっても、我々には到底分かりません。


(P.55~P.56)
(引用開始) 
 「実体がないこと」を空という。色(肉体)は空、受(感覚)も空、想(概念)も空、行(衝動)も空、識(認識)も空ー。ここまでは仏教です。
 ただ経典を省略したために、一般の人が困るところがあります。「受想行識亦復如是」と省略して、「受即是空」「想即是空」「行即是色」「識即是色」と列挙しないのです。

 それなのに「色は空です」としか観ずに、「肉体は滅びるのだ」としか念じないなら、私たちは「肉体は滅びても、他のものは残るのではないか」というような勘違いを犯してしまいます。

(引用終わり

 そもそも「色」を「肉体」と定義することが『般若心経』の文脈とは合致しないので、引用後半の部分のような「勘違い」はしようがありません。
 また、『般若心経』が「色」だけを特別に扱うのは合理的な理由があり、「色即是空」の一句だけで、「空」論のすべてを理解した、という「呪文」の役割を負わせているのです。
 
 既述のように、「色即是空」の「色」とは、「肉体を通じて感知しうるあらゆる存在と現象」、と定義できます。

 人がある現象や存在を感知するのは、まず最初に感覚(受)であり、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりして、得られた情報から、イメージ(想)が作られます。そのイメージから、それが何か、良いか、悪いか、甘いか、辛いか、食べるか、逃げるか、などの判断(意思決定=行)がなされます。

 これらの思考や行動は、意識(識)に記録され、今度は意識が情報になってイメージの形成や意思決定にも影響を与えるようになり、それらを総合して、その現象や存在が何であり、自分がそれに対してどのように行動するかを決定するようになります。そのような意志決定は、少しでも情報が変化するたびに何度でも行われます。

 すると、人間がある存在や現象(色)を認識するまでには、「受想行識」が重層的に働いており、「受想行識」がなければ「色」を認識することができません。
 つまり、「色」とは「受想行識」と同じこととも言えるし、「あらゆる存在や現象」の総称と言うことができます。 

 「色即是空」の「空」とは「関係」のことであり、「前後的因果関係」と「同時的相互関係」のどちらか、または両方に当てはまるものを言います。
 人間にとって、ある存在や現象が何であるかは「受想行識」によって決まります。このとき「受想行識」の働きは、その存在や現象との「関係」によってそれが何であるかを決定します。

 例えば、目の前に一人の女性がいるとします。その女性が自分の妻であると認識するためには、その女性は確かに女性である、とか、自分が男性である、とか、自分は女性だが同性愛である、とか、何年前に婚姻届を出した、とか、何年も夫婦として同居しているとか、二人の間に子供がいる、とか、すべて「関係」によってそのように認識できるものです。
 もし「関係」抜きに考えると、目の前にいるのが妻かどうか分からないし、女性かどうかも分からないし、一人かどうかも分からないし、人間かどうかも分からないし、本当にそこにいるのか、三次元画像かどうかも分かりません。
 
 このように「存在や現象」が「あるか」「何か」などは「関係」によって決まるのであり、「存在や現象=関係」と言い換えることができます。
 「色即是空」とは、「存在や現象=関係」ということであり、
「色即是空」なら当然に「空即是色」という言い方が成り立ちます。「関係」は「受想行識」で決まるものですから、「受想行識即是空、空即是受想行識」ということはできても、「受即是空」「想即是空」「行即是空」「識即是空」などというのは正しくありません。つまり、「受は空である」とは言えても、「空は受である」とは言えないからです。

 「色即是空、空即是色」が「呪文」となりうるのは、この八文字だけで「空」のすべてが表現できるからであり、修行の大きな助けとなります。しかし、「空」を理解していない人が唱えても、たぶん何の効果もありません。

 
 P.58~P.61
(引用開始)
 「色即是空」、すなわち「肉体は空である」というのは仏教的に正しいのです。肉体には実体がなくて空なのです。
 しかし『般若心経』は、次に「空即是色」、すなわち「空は肉体である」と言ってしまうのです。これは間違いです。
 わかりやすい例をあげましょう。
「リンゴは果物である」というのは正しいのですが、「したがって、果物はリンゴである」というのは間違いなのです。
「人は死ぬべきものである」というのは正しいのですが、「したがって、死ぬべきものは皆人である」というのは間違いなのです。

(引用終わり)


 「リンゴは果物である」というのは、日本語としては問題のない表現ですが、それは日本語の持つ曖昧性に依存するもので、正しく英語にしてみると、必ずしもそうとは言えません。


 Apple is a fruit.
 リンゴは(ある一種類の)果物である。
 
 日本語で「リンゴは果物である」というのは、「リンゴ=果物」なのか「リンゴはある一種類の果物」なのか曖昧なのですが、何となく常識的に、「ある一種類の」というところを省略しても意味が通じてしまいます。
 ところが、「色即是空」というのは「色=空」という意味であり、「色=空」なら当然に「空=色」でなければなりません。

 つまり、「フルーツは果物である」というのが「色即是空」であり、「果物はフルーツである」というのが「空即是色」にあたります。 

 「人は死ぬべきものである」は「人=死ぬもの」という関係ではありませんから「色即是空」にはあてはまりません。
 「生き物とはすべて死ぬものである」なら、「生き物=死ぬもの」であり、「死ぬものはすべて生き物である」と言い換えることができますから、「色即是空、空即是色」と同じ構図と言えます。

 何度も言うように、「色即是空」とは「存在や現象=関係」という意味であり、「空即是色」つまり「関係=存在や現象」と、そのまま転換することができます。

 「色即是空」は「空即是色」と全く同じことであり、「色」と「空」はなんら異なるところがありません。
 「受想行識」もまた「色」と同じであり、「空」とも同じことと言えます。



2007.09.15 Saturday
『般若心経は間違い?』の間違い(四)
『般若心経は間違い?』(宝島社新書) 62頁より

 舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。

諸法空相」はすべての法(もの・こと)は空相である」ということです。これに異論はありません。パーリ経典にsabbe dhammã anattã(諸法無我)とあって「無我
anattãアナッター」は「実体がない」ということで「空」の同義語ですから、「諸法空相」も正しいのです。
 ただし・・・・・すべてのものは実体がないから増えることも減ることもない」と言うことはできるでしょう。
 しかしそれは本当でしょうか?
 人は現れたり消えたりするでしょう?赤ちゃんから大人になると、体積も体重も増えていくのは当たりまえでしょう?色は現れたり消えたりするでしょう? 
 一切の現象に実体はなく、因縁によって現れては消えているのです。現象の世界には、生滅も増減も明らかにあるのです。


 スマナサーラ氏は、もともと「空」論者ではなく、「有」論者であることがわかります。同氏の属するのは「上座部」という宗派であり、主観的な「我」は「空(無我)」であるが、客体的な事物の類型(法)は三世に渡って実在する、という教義を持っています。「現象の世界には、生滅も増減も明らかにある」というのは、「有」論派の考え方としては当然ですが、『般若心経』を「間違い」と決めつけるのは、単に自派の教義を他派に押し付けているだけであり、なんらの論理性も正当性もありません。

 「仏教」ではなく「科学」の世界でも、「現象の世界には、生滅も増減も明らかにある」という主張は、量子力学の「不確定性原理」によって否定されており、ある素粒子が存在するかどうかは不確定であり、観測によって結果が変わることが、多くの実験によって証明されました。

 「空」論から見れば、「生滅」や「増減」などは、「そう見えるだけ」、という「関係」に過ぎず、「生」と「滅」、「増」と「減」の区別さえ、とうてい「明らか」などと言えるものではありません。
 
 
(65頁より)
 初期仏教では、あくまでも「一切の現象は生じて滅するものである」「一切は無常である」という立場です。
 お釈迦様は生滅説なのですね。
 これに対して『般若心経』は、「生滅がない」と言っているのです。この一言で『般若心経』は、せっかくお釈迦様が発見された「無常」という真理を否定してしまうのです。
 
 これも「空」論から見れば、話はあべこべで、「実在」するなら「無常」にならないではないか、と考えるところですが、上座部の見方は違うようです。
 繰り返しますが、「生滅」や「増減」などは、「五蘊」によって「そう見えるだけ」という「関係」つまり「空」に過ぎません。

 「無我」と「空」は同じ、と言うならば、「色=空」ですから、「色」と「無我」も等しくなければなりません。
 「諸法無我」の「諸法」とはあらゆる「存在」や「現象」のことであり、すると「色」と「諸法」は全く同じことですから、「諸法無我」なら「色=無我」であり、「色=諸法=無我=空」ということになります。
 

『般若心経は間違い?』の間違い (五)  
 『般若心経は間違い?』(宝島社新書) 65〜82頁

 是故空中。無色。無受想行識。

 無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得

 さらに続けて『般若心経』は、仏説たるものを全部「無」だとして否定するのです。
 六根六境を否定して、十八界を否定して、無明を否定して、無明がなくなることも否定して、要するに十二因縁を全部否定して、苦集滅道の四聖諦も否定する。智慧も否定する。もう言葉もありません。
 
 「ですから、空のなかには、色も無く、受想行識も無く・・・」
 と始まるこの部分は、お釈迦様が説いたものといわれ、「仏教」の「教学」の中でももっとも重要とされる、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」「四聖諦」「智慧」「悟り」を、ひとまとめにして「無い」と断じています。

 「上座部仏教」、つまりお釈迦さまの教えだけを忠実に守っているという、スマナサーラ長老が怒るのも無理はないのですが、少し冷静になって、見る角度を変えて観ていただかないといけません。

  既述のように、「五蘊」とは「人間であることの五つの要素」というべきもので、人間は「五蘊」によって、「自己」と「他者」、人類と自然、などの「分別」ができるものです。(西洋哲学ではこれを「自己疎外」と言います)

 ところが、この「分別」こそが、人間にとって「苦」の原因であり、「分別」から生じる「執着」こそが、あらゆる「苦」の元になっています。
 つまり、「五蘊」とは「苦」の原因と言えます。

 「五蘊」は「色・受・想・行・識」に分かれますが、さらに細かく分類すると「十二処」や「十八界」というものになります。
 また、「五蘊」を立体的に展開し、時間的、つまり因果的な要素を加えたものが「十二縁起」です。
 すると、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」とは、どれも「苦」の原因を分類整理したものです。

 つまり、「空の中には、五蘊も十二処も、十八界も、十二縁起もない」というのは、「空」を理解すれば、「苦」の原因もすべて消えてしまう、という意味になるはずです。

 ならば「四聖諦」つまり「苦・集・滅・道」はどうかというと、「苦」は、「苦」そのものであり、「八苦」ともいいます。
 「八苦」には「生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦」の八項目があります。

 「集」とは、「苦の原因」のことで「五蘊」つまり「色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊」の五つを言います。

 「滅」とは、「苦を避ける法」であり、「不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒」によって「苦」を避けることができるようになります。

 「道」とは、「苦を滅する法」であり、「八正道」ともいいます。「八正道」には「正語・正業・正命・正勤・正見・正思・正念・正定」という八つの項目があります。
 なかでも「正語(正しい言葉)・正業(正しい行為)・正命(正しい生活)・正勤(正しい努力)」なら、心がけ次第で、何とかできるものですが、「正見(正しい見解)・正思(正しい思考)・正念(正しい観念)・正定(正しい禅定)」となると、こころがけだけではどうにならず、非常に高度な修行が必要です。

 「八正道」の目的は、既に生じてしまった「苦」を解消することですが、「空」を「悟」れば「苦」は生じなくなり、「道」も必要がなくなります。
 「道」によって「悟り」を得る、という人もいますが、「空」を理解した人なら、「空を悟る」こともできるはずですから、まずやるべきことは、「空」を正しく理解し、次に「知っている通りに行動できる」ようにするべきです。

 仏教では、そのような誤った考え方を「顛倒」と言い、「顛倒」を自覚することによって、突然「悟り」を得ることがあります。これは、特に「禅」に見られる考え方です。


『般若心経は間違い?』の間違い (六)
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)より
 
 十二因縁で「私はどうすればいいか」が明確にわかります。・・・・こういう存在の分析はブッダしかやっていないのですから、人間が知るはずもありません。・・・・・・・
 十二因縁は生起論と滅尽論がセットです。無明がなくなれば行もなくなる、行がなくなれば識もなくなるー、という滅尽論もあるのです。これによって、私という存在が、苦しみの世界から脱出して解脱に達する道筋が明らかになったのです。(P.78)
 

 「人間が知るはずもありません」というのも驚くべき発言ですが・・・
 スマナサーラ長老の捉え方では、「十二縁起」は、一人の人間が生まれてから死ぬまでのようになっています。
 すると、「無明」が無くなれば、「行」も「識」も無くなる、というのは、ただ「生まれてこなければよかった」と言っているようなものです。
 “十二因縁で「私はどうすればいいか」が明確にわかります”と言いますが、さっぱりわかりません。

 「十二縁起」については、"十二縁起ー空と疎外−「悟り」へ”をお読みください。 

 「十二縁起」について、「説一切有部」は、「無明、行」を「過去二因」、「識、名色、六処、触、受」を「現在五果」としており、「過去」の「無明」や「行」を消したところで、「現在五果」が消えるとは言えません。まして、「愛、取、有」は「現在三因」であり、「生、老死」という「未来二果」の原因になっています。
 すると、人間は「現在三因」の「愛、取、有」、つまり欲望の部分だけを何とかすれば、「未来二果」を残さずに済むようになるはずです。  
 この見方では、「現在三因」は次の世代にとっての「過去二因」、という捉え方になっており、だからこそ「因縁」と言えるはずです。

 しかし、そのあたりは、ただ解釈の違いであり、「十二縁起」とは、「縁起」という「思想」でまとめられた、十二段階の「概念」であることは、異論がない筈です。
 ところが、スマナサーラ長老はじめ、仏教徒のなかには異論があるようで、お釈迦様の説いた「法」は、「実在」する「真理」とされているようです。

 「法」には「記述としての法」つまり「存在や現象」という意義と、「規範としての法」つまり「理念」という意義があります。
 「十二処」「十八界」「十二縁起」などの「法」は、「規範としての法」であり、いくらお釈迦様の説いた「真理」である、と主張したところで、「実在する法」であるというような考え方は、ただ「信仰」でしかありません。

 仏陀は、「私(仏陀)の言っていることを疑いなさい。自分を拠り所としなさい。自分自身も疑いなさい」と説いたとされています。すると、仏教徒なら必ず、「お釈迦様の説いた真理」を疑い、自分の信仰を疑い、葛藤しなければならないことになりますが、長老の言説には、それが見当たりません。
 ただし、「すべてを疑え」というのは、仏教の専売特許という訳ではありませんし、一生疑い続るとは限りませんから、「仏陀を疑う人=仏陀を信ずる人」というわけではありません。ただ、「仏陀の教えを疑ったことの無い人は、仏陀の教えを信ずる人とは言えない」とは言えるでしょう。
 
  

 
 「四聖諦」は「苦諦・集諦・滅諦・道諦」から成る、「存在とは何か」についての説明です。・・・・・・ブッダが言うのは・・・・・「どこにも実体のないことを発見しなさい。悩む自分も実体がないことに気づきなさい」・・・・空だけを取り上げて、哲学的に厳密に空の哲学思想体系を作る必要はないのです。
(P.79〜81)


 「四聖諦」にも「自性」はなく、「絶対的な存在」ではないことも間違いはありません。
 しかも、「四聖諦」は「規範としての法」であり、「記述としての法」つまり「存在や現象」そのものではありません。
 「苦」も現象には違いありませんが、「四聖諦」の「苦」は「苦」という「概念」であり、「苦」そのものではありません。

 お釈迦様は「一切皆苦」と説かれたと言いますが、もし「苦」が絶対で、万物は「苦」という「自性」を持って生まれてくる、とするなら、「苦」はすなわち「我」であり、「我」を認めることになってしまいます。
 「四聖諦」によれば「苦」には「八苦」があり、その原因は「五蘊」に帰するといいます。また「苦」を無くすには「滅諦」と「道諦」という方法があります。
 「五蘊皆空」ですから、「苦」もまた「空」であることは当然です。

 仏陀の教えと言えども、「もともと実体はなく」、「十二処」「十八界」「十二縁起」「四聖諦」のような、「哲学的思想体系」を作っても、そこに「実体があると勘違いするから執着するのです」、そして「仏陀の真理」などという、ドグマ(教条)に転化するようになるのです。
 「人間にはお釈迦さまの分析は難しい」、つまり、当時としては優れた理論だったとしても、現代の水準から見れば、普通の人間の考えた「古代哲学」でしかなく、「科学的なありのままの分析、事実」というなら、否定されても仕方がありません。「そこでレトリックを駆使して矛盾無く語れたとしても、ただの無駄話になることは避けられないのです」

 「智」や「悟り」も、「得」ようとすれば「執着」が生まれ、むしろ「苦」の原因になってしまいます。
 「智慧」も「悟り」も「仏陀」も例外なく、「実体」のあるものではなく「空」でしかないと知らなければなりません。 
 「諸行無常、諸法無我」は仏教の根本であり、長老の言うとおり、「空」とは「無常」と「無我」を「哲学的に」徹底させた考え方というべきです。
 「十二処」「十八界」「十二縁起」「四聖諦」などの、当時としてはすぐれた「概念」も、「実在する法」つまり「実有」だと主張するから、「色即是空、空即是色」の立場から見れば、「常」や「我」を認めるものに間違いなく、「無」と否定したと考えるべきです。

 『般若心経』の成立年代は明らかにされていませんが、インドで「説一切有部」が仏教の主流だった当事に、書かれたか伝承されたことは間違いないでしょう。経典としては非常に短い上に、自らを「呪文」であると言っているし、古いテキストが残っていないことからも、最初は口伝だけだった可能性もあります。

 『般若心経』が「無」とするものは「説一切有部」の教理、すなわち「有」にあり、『般若心経』を批判するスマナサーラ長老の立場が、「説一切有部」と近いのか遠いのか、それすらも曖昧なために、あまり噛み合っていません。

    
 
 宗教に興味を持つ人は、何かしら苦しんでいるのです。だから宗教は、苦しみに対する答えを出さないといけないのです。「そんな苦しみなんかないんだよ」と言っても、それは答えになりません。だから私の批判しているところは、「空論を語るのはかまわないけれど、語ると、私たち一人ひとりがどうするべきか、ということが言えなくなってしまうではないか」ということです。
・・・・・『般若心経』ではどこまでも、観念を回転させて、結局、修行も道徳も成り立たないところまで脱線してしまいました。・・・・・話の内容がいくら緻密であっても、道徳が成り立たないような結論に至るならば、お釈迦様はそれを「邪見」の類に入れるのです。(P.81〜82)


 日本に「阿含宗」という宗教団体があり、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によりますと、

 阿含宗(あごんしゅう)は、桐山靖雄(きりやませいゆう)により1978年(昭和53年)4月8日に創設された仏教系の新興宗教。 毎年2月11日、「炎の祭典・阿含の星まつり」という後期大乗仏教の密教に由来する山岳修験道の儀式である護摩儀式の一種大柴燈護摩供を京都花山にて開催することでも知られる。・・・
 阿含はゴータマ・ブッダ=釈迦が直接説いた内容をまとめた唯一の教典である、阿含経(アーガマ)を依経とすることを自称したことから名付けられた。スリランカより贈与された「真正仏舎利」(釈迦のご遺骨)を本尊とする。・・・・・・・・・
 初期には桐山の念力で護摩木に火を点けるという「念力護摩」が話題になった。桐山は、阿含経の「七科三十七道品」の修行の過程で、釈迦の瞑想法であるクンダリニーヨーガによりチャクラの開発に成功した結果であるとしている。・・・・・。オウム真理教(現アーレフ)が引き起こしたとされる一連の事件が問題になった際、同教団の古参信者の中にかつては阿含宗の信者だった人がいたことが話題になった。・・・・・・・・・・
 スリランカでは、経済的困難で教育が受けられない学生への奨学金の授与を十数年間続けてきており、奨学金を受けた学生は1000人を超え、多くの学生を支援しているという。・・・・・
1986年(昭和61年)スリランカジャヤワルデネ大統領より真正仏舎利拝受

 
 ーと、いうことになっております。
 かつて、私たちの中にも、「阿含宗」に入信して、全財産を寄付し、「苦しみ」から救われた(?)人がいますが、一文無しになったところで、脱会してしまいました。
 あのお金は、スリランカの学生たちのために使われているのかも知れませんが、「真正仏舎利」は、それらの資金援助への「対価」だったのでしょうか?
 もし、スリランカの「真正仏舎利」が無かったら、全財産を寄付するほどまでには「信仰」しなかったかも知れません。

 スリランカでは、「上座部仏教」が「国教」に順ずる扱いで、この近年は、少数のヒンドゥー教徒やイスラム教徒に対する、差別や迫害、テロ行為、反発する少数民族側からの自爆テロなどと打ち続く紛争が、大きな問題になっています。
 「阿含宗」の「真正仏舎利」が、仏教者ではなく、スリランカ大統領から授与された、というところも、スリランカ仏教の事情を物語るものなのでしょう。

 スマナサーラ長老は、「道徳」と言いますが、それなら「道徳」の基準を示すことも必要です。
 スリランカ・テーラワーダ仏教の「実践」は、スリランカと日本の人々の「苦しみ」をどのように救うのでしょうか。


『般若心経は間違い?』の間違い (七)
『般若心経は間違い?』(宝島社新書) 

 以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離[一切]顛倒夢想。究境涅槃。
三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。

 「菩薩たちは現象の世界でよりどころにするものがないから、その心は障りなくいられるのだ。恐怖なく顛倒なくいられるのだ。三世の諸仏も般若波羅蜜多によって阿耨多羅三藐三菩提(この上なき正しき悟り)を得ているのだ」という意味です。
 この二行はブッダの教えに照らしても間違いありません。一切は空であると観ると、心には何も引っかかるものはなくなります。一切は空であると悟ることによって解脱します。(P.83)


 「一切皆空」は「中観派」の主張かと思ったら、何と「上座部」でも同じ考え方とは知りませんでした。

 それにしても『般若心経』は、作品として矛盾だらけでガタガタで、前後がつながっていません。・・・・・・・・・・・・
 それで現代人の頭である程度論理的にしっかり理解できるようになりますが、原典の内容そのものは理解できていないのです。(P.83〜84)

 

 このスマナサーラ氏の見解は、自分が読み間違えているのを「作品」のせいにしている、という点を除けば、単純に間違いとは言い切れません。今まで、日本人は『般若心経』を、ありがたがり、絶賛しながら、実は理解していなかったことを明らかにしたことは、慧眼と言うべき、と思います。 
 特に、「空即是色は間違い」というのは眼の付け所が良く、中村元さんの訳をベースにしてきた、多くの日本の仏教者は、まともに反論できません。
  
 日本で知られている、漢訳『般若心経』は、玄奘三蔵らの訳で、漢文で書かれたお経ですから、中国の仏教者にとっては、日本人のように、理解できないというものではありません。
 私たちは、故張明澄先生から、中国仏教(密教と禅)を学んできましたから、漢訳『般若心経』を読むのに困ることはないし、スマナサーラ氏の主張する「空即是色は間違い」についても、当時から、日本式の訳では内容にマッチしないことは知っていました。

 『般若心経』のうち最も重要なのは次の部分です。

  色不異空  色は空に異ならず
  空不異色  空は色に異ならず
  色即是空  色は即ち是れ空
  空即是色  空は即ち是れ色
  受想行識  受想行識
  亦復如是  また是れの如し
 
 肉体を通じて認識するあらゆる存在や現象(現象)は、すべて同時的相互関係か前後的因果関係(関係)を認識することであり、両者に違いはありません。
 「関係(空)」と「現象(色)」には、何ら違いがありません。
 「現象」とは何かと一言でいうなら「関係」であると言うことができます。
 「関係」とは何かと一言でいうなら「現象」であると言うことができます。
 「受想行識」とは、「現象」つまり「関係」を認識する機能であり、「関係」と「受想行識」は等しく、「現象」と「受想行識」も同じと言えます。
 

 言っていることは、要するに、「空(関係)と色(現象)は全くおなじものである」つまり「空=色」ということであり、素直に読みさえすれば間違えようがありません。
 ところが、中村元さんの訳では、「色」は「物質的現象」、「空」は「実体がない」となっており、「物質的現象には実体がない」のは認めるが、「実体がないものは物質的現象である」とは言えないというのが、スマナサーラ長老の主張です。
 実際、「空即是色」の訳文は「およそ実体がないということは、物質的現象なのである」という、苦しい文章になっています。(岩波新書『般若心経 金剛般若経』中村元 紀野一義訳注)

 しかし一般に、翻訳された文章を読む場合、訳語が原文の文脈に当てはまっていないなら、原文の文章が間違っているのか、訳語に問題があるのか、どちらと考えるべきでしょうか。
 こんな場合、原文よりは、翻訳の方に問題があると考えるのが普通だと思うのですが、『般若心経』に限っては、訳語ではなくて、原文が間違っている、という倒錯した話がまかり通るようです。

 分かりやすく、別の例を挙げてみましょう。

   彼は成田空港から天国へと旅立った。

 飛行機で天国へは行けないから、この文章は間違いだと考える人がいるかもしれません。
 ところが、この文章には次のような解釈が可能です。

 1、「天国」というのは実際にある地名で、本当に、飛行機で「天国」へと旅立った。
 2、「天国」というのは比喩であり、「男性天国」というように何かが非常に盛んで、彼にとって「天国」と呼べるような土地へ旅立った。
 3、「天国へ旅立った」というのが比喩(暗喩)で、実は彼の乗った飛行機は事故に遭い、彼は帰らぬ人となった。
 
 この文章は、前後の脈絡抜きでも、上のような解釈が可能であり、「間違っている」と思う人は、それほど多くはいません。
 しかし、スマナサーラ長老なら、それでもこの文章は間違っている、と言うかも知れません。「仏陀は天国など認めていない」という理由で。

 ならば、『空即是色』はどうか、と言うと、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是」と、前後の脈絡もはっきりしており、「色と空は同じである」ことを、繰り返し述べています。
 スマナサーラ長老が、「色と空は同じでない」から「間違っている、というなら話は分かりますが、「色即是空」つまり「色と空は同じである」ことは認めながら、「空即是色」つまり「空と色は同じである」ことは認めない、というのですから、長老は、「色即是空」の意味も、正しく理解していないことになります。
 と、言っても、長老の解釈は、中村元さん初め、ほとんどの日本の『般若心経』解説者の訳語に則ったもので、日本語の理解能力の問題でもないし、突飛なものでもなく、むしろ誤読の責任は、日本の『般若心経』解説者のほうにあると言えます。
 中村元さんは、日本仏教界で人格者として知られ、表立って反論する人はこれまでほとんどいませんでした。
 しかし、論語には「子曰。君子不以言挙人。不以人廃言。」つまり、良い事を言うからと言って、それだけで人を採用したり推挙してはいけない。大したことのない人の言うことだからと言って、その意見を排除してはいけない。という意味であり、誰が言ったかだけによって、正しいとか正しくないとか、決めつけてはいけません。 



『般若心経は間違い?』の間違い (八)
 
 
『般若心経は間違い?』(宝島社新書) 87頁〜

第二章 呪文と真実語
 故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒。是無常咒。是無等等咒。能除一切苦。真実。不虚故。

 ゆえに知るべし、般若波羅蜜多は、これ大神呪咒なり、これ大明咒なり、これ無上咒なり、これ無等等咒なり、よく一切の苦を除き、真実なり、虚ろならざるがゆえに、と。


 驚きました。なんの脈絡もなく「これがすごい呪文である」と宣言したのです。 
 こうなってくるともう、迷信依存症の人々に語っていることになります。呪文やら方位やら風水やら八卦占いやら、タロット占いやら、そんな程度の非科学的な占いを信じている人に語っていることになってしまうのです。・・・・
 『般若心経』を書いた人がすごい真理を語っていると思うならば、なぜ呪文で終わるのでしょう?呪文で済むなら、ブッダの言葉を持ち出して逐一否定することはなかったでしょうに。それなのに「般若波羅蜜によって悟りますよ」とも言っているのです。(P.88〜89)
 
 

 スマナサーラ氏は、密教関連の知識がよほど不足しているらしく、占術や呪文が、密教ではどのような扱いになっているかも、全く知らないようです。
 風水や八卦占いについても、女性週間誌程度の知識と見られ、「そんな程度の非科学的な占い」などと軽蔑しているのですが、自分の知らないことに対して極め付けるのは、いかがなものでしょうか。

 分類学に関して、中国はインド以上に発展しており、「格物致知」つまり分類によって物事の本質を知ることが、中国の伝統的な学問の中心になっています。
 「卦」とは物事を「陰」と「陽」に分け、さらに「陰の陰」と「陰の陽」、「陽の陽」と「陽の陰」という四分類し、これらをさらに「陰陽」に分けて「八分類」としたのが「八卦」です。
 「八卦」と「八卦」を組み合わせたのが「周易」に見られる「六十四卦」であり、さらに「六十四卦」と「六十四卦」を組み合わせたのを「易林」といい、四〇九六の組み合わせができます。これは現代のコンピュータに使われている「二進法」と全く同じ原理であり、「説一切有部」の「五位七十五法」などよりはるかに合理的な分類法と言えます。

 分類法には「陰陽」のほかに「五行」や「干支」というものがあり、「十干」や「十二支」という記号の組み合わせにより、非常に精緻な分類が可能であり、「記号類型学」としての「方剤」(漢方)や「風水」「方位」「命理」などに生かされています。
 「非科学的」と言えば批判したつもりかも知れませんが、「時間」や「方位」に記号をつけて統計的に分類し、未来予測に使うという発想は「現代科学」にはないもので、「時間」も「方位」も全く扱ったことのない「科学」には、中国の「記号類型学」を否定も肯定もする資格もなければ、その材料すらありません。
 
 中国では、「受想行識」も、中医学の「五体論」という「記号類型学」として扱われており、それぞれに「丙丁甲乙」という「記号」が振られます。(“『般若心経』−漢訳とサンスクリットの違い”参照)
 既述のように、法相宗の大家だった玄奘三蔵法師が「受想行識」という用語を使うとき、「五体論」の「受想行識」を念頭においていたことは自明の理とすべきです。

 さらに「中国密教」においては、「チベット密教」の体系に加えて「儒教」や「道教」の体系も取り入れ、あらゆる知識を組み合わせた総合的な体系を持っており、「記号類型学」は学問ばかりか、修行の過程にも大いに利用されています。
 「密教」の「密」とは「秘密」の「密」と思われがちですが、むしろ「緊密」の「密」であり、あらゆる知識や技術を総合的に活用することにその本分があるものです。

 では、密教における「呪文」とはどのような意味を持つのでしょうか。
 密教の「呪文」は「真言」という言い方もできるように、ある内容を暗記しやすく短い短文にまとめ、唱えることによってその内容を徹底的に意識に摺り込むようなものになっています。
 『般若心経』は、中国密教の「真言」とは少し違いますが、「色即是空、空即是色」のようなよくできた「呪文」なら十分に使い道があります。たとえば、恐怖にであったり、欲望に目が眩んだときなどに唱えれば、あらゆる現象は「空」であることを思い出して乗り切ることができるでしょう。

 スマナサーラ長老は、『般若心経』の「呪文」は最後の数行の部分と考えているようですが、「中国密教」の知識からすれば、むしろこの部分はどうでも良いところで、『般若心経』の「呪文」として最も優れたところこそ、「色即是空、空即是色」の八文字と言うべきです。

 既述のように「色=空」という表現は、「空」とは何か、「一切が空」とはどういうことであるかを、端的に、かつ余すところなく表現しつくしており、修行者は「色即是空、空即是色」と唱えるだけで「空」を「悟る」ことができるようになっています。

 唱えるだけ、と言っても、もちろんその意味を理解していなければ何の効果もありません。
 ところが、「悟り」とは、単に理解するとか知ることではなく、「知行合一」つまり「知っているとおりに行動できる」ことです。
 すると「空を悟る」とは、単に「空」を理解するだけでなく、人間が何らかの障碍に出遭ったときに、それが「空」なるものであることを念頭におき、恐怖や欲望や執着に囚われることなく、持っている知識のなかで最適な行動が取れる状態になることを言います。
 「空」を理解していれば、恐怖や欲望や執着などまったく無意味で障碍など何もないのですが、実際の場面で知っているとおりに行動できるかどうかは難しいものです。
 そんなときに「色即是空、空即是色」の八文字さえ思い出せれば、“なんだ「空」ではないか”と冷静に対処できるようになり、その場面での最適な行動が取れるようになります。つまり「密教」の考える「呪文」や「真言」とは、「悟り」への近道と言うべきものです。

 『般若心経』全体を「呪文」として見た場合、
まず「観自在菩薩、行深般若波羅密多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄
 つまり観自在菩薩が、衆生に「照見五蘊皆空」し、衆生を「度一切苦厄」して救った、と言いますから、「菩薩行」を行う人は、人々に「人間が認識できる一切のものは関係である」ことを知らせて「悟り」に導き、苦しみから救うことを念頭におかなくてはなりません。

 次に「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識亦復如是」、つまり「色=空=受想行識」であり、あらゆる「現象」は「関係」という「認識」であることを確認しています。

 「是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減」、つまり眼に見える(感知できる)現象に物事の本質はないことを明らかにしました。

 「是故空中、無色、無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界、乃至無意識界、無無明、亦無明尽、乃至無老死、亦無老死尽、無苦集滅道、無智亦無得
 ここでは、「実有」つまり「実在の法」とされる、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」「四聖諦」などの「仏陀の教え」や「仏教教理」について、「無」であるとして否定し、「空」がすべてであると宣言しています。
 しかし、「無」であると言いながら、実はすべてを暗記させてしまおうとする意図が見て取れます。
 つまり、こういう「ドグマ」を「実在する法」などと有難がっても仕方がない、と言いながら、知らなければ否定もできない、という訳か、非常に覚えやすく少ない文字数に整理して並べています。
 しかし、こうした教理が大切なのは「悟り」を得るまでのことで、「色即是空」を知り「空」を悟れば、もう要らない、つまり、「彼岸に渡ったら筏を捨てろ」ということのようです。

 「以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離顛倒夢想、究境涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提

 (“玄奘訳”漢訳の邦訳ー張明澄・掛川掌瑛)
何かを得るということには絶対性がなく、そのため菩薩は智慧の完成だけをその基盤にしているのであり、だから心に障碍となるものがありません。心に障碍がないから恐れもなく、自分の心からでっちあげるものから離れることができ、究極的な解脱に至ることができます。

 「阿耨多羅三藐三菩提」は音訳で、意訳されていません。
 ここまでは、「仏教認識論」の「おさらい帳」といった趣向ですが、これでは「大乗経典」らしい有難みがないと思ったのか、ここから先は、長老の言うとおり、「法華経」ばりに、自画自賛のような美辞麗句が並んでいます。


 「故知般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒、是無常咒、是無等等咒、能除一切苦。真実。不虚故

 ここも「法華経」ばりの自画自賛ですが、長老の見解では、ここから先が「呪文」と言っています。ところが、実は、肝心なところはこの前までで、ここから先はどうでも良い部分なのです。
 

 呪文の特色は、論理性がないことです。文法も主語も目的語もありません。・・・呪文には、伝える意味がないので、力がないのです。なのに皆、呪文に力があると思って、意味のない単語を羅列する。それは明確に迷信です。・・・日本にも真言というマントラ、呪文がありますが、あれにも意味がないのです。(P.98)


 日本の「真言宗」は、「中国密教」から見たら、とうてい「密教」とは言えない迷信集団ですから、どうでも良い話です。

 「中国密教」乃至すくなくとも「南華密教」では、全く意味のわからない「マントラ」など「真言」とは認めません。
 「南華密教」でいう「真言」は、あくまでも人の指針となるような短文であり、「悟り」に近づけるための、ちょうど、禅の「公案」のような内容と位置づけになっているものです。
 長老の言う「意味のある言葉に力がある」というのはその通りで、「南華密教」の「真言」は、正にそれを利用した修行法として確立されています。
  

『般若心経は間違い?』の間違い (九)
 
『般若心経は間違い?』(宝島社新書) 99頁〜

説般若波羅蜜多咒。即説咒曰。
 揭帝 揭帝 波羅揭帝 波羅僧揭帝 菩提僧莎訶
般若波羅蜜多心經

般若波羅蜜多なる咒を説く。すなわち咒を説いていわく、    
 揭帝 揭帝 波羅揭帝 波羅僧揭帝 菩提僧莎訶

 ・・・パーラガテーは、「あっちへ行ってしまった」。
 ・・・パーラサンガテーは、「まったく消えてしまった」でしょうか。それでも正しい訳とはいえません。サンスクリット語を知っている人にもそんなに意味がとれないのですが、呪文に意味があってはいけないのです。 (P.100)


 長老には意味がとれないというので、一応、標準的な解釈と思われる訳をあげておきます。
 

 往く者よ、彼岸に往く者よ、彼岸に渡れ、彼岸に渡れ! 
 彼岸にいたれば幸多し。



 この、最後の「呪文」は、ただ「彼岸に往って帰ってくるな」というだけで、たいした意味がないので、「南華密教」では、あまり重視しておりません。
 ただ、「仏陀の教え」たる仏教の基本的な教理を、すべて「無」であると断ずる『般若心経』の作者の意図は、「彼岸に着いたら筏を捨てよ」という釈迦の教えに、むしろ忠実なのかも知れない、と思えるものです。


 ブッダによって書かれた教訓は、言葉という不完全なものを使っているにもかかわらず、見事に完成されていて、どこにも隙がありません。それこそが、偉大なる智慧、悟った智慧の証しなのです。・・反論できないように語るというのは、人間にはできるものではないのです。同じ人間であるお釈迦さまが反論できないように語るというのは、何かあるのです。それは悟っているということの証しだよと、ブッダが言うのです。・・
 一切智者たるブッダの言葉だけは不動で完全無欠で、それ以外のものにはいろんなボロがあるのです。・・人間は不完全だから当たり前です。一般人には矛盾なしに語れません。
(P.106~107)


 相変わらず、「ブッダは完全」で「人間は不完全」だそうですが、「同じ人間であるお釈迦さまが・・・と、ブッダが言うのです」といいますから、釈迦は人間で、ブッダは人間ではない、ということのようです。  
 しかし、「仏陀の言葉」というのは、仏陀が死んでから三百年もたってからようやく文字にされたもので、それまでは口伝えに伝承されてきたものとされています。
 すると、「ブッダの完全な言葉」が「完全」に伝承されたのは、伝承した人たちが「完全」だったということなのでしょうか。
 スマナサーラ長老の言説は、確かにご本人の言う通り、「不完全」で「矛盾」だらけで、「ボロ」だらけなのですが、もし長老が、仏弟子の口伝継承者だったら、とうてい「完全な」「仏陀の言葉」は残らなかったことでしょう。
 いや、それは専門家でないからだけで、暗記することだけに徹すれば、人間の記憶というのは、案外すごいもので、現に円周率を10万桁近くも正確に暗記してしまう人がいます。しかし、円周率というのは、それ自体には意味を見出せないただの数字の羅列であり、暗記することと、意味を理解することは無関係と言えます。

 仏陀は、文章を残さなかっただけでなく、教えを文字にすることを禁じた、といいます。つまり、言葉は文字にしてしまうと、本来の意味と同じではなくなってしまう、と仏陀は考えていたようです。
 すると、「仏陀の完全な言葉」は、「不完全な人間」や「不完全な文字」によって現代に伝わったものであり、「口伝」と「経典」を根拠に「仏陀の完全な言葉」などというのは、本来成り立たないのではないでしょうか。

 もし、「仏陀の完全な言葉」を、「完全」に記録したという「経典」が、本当に「完全」なら、「経典」の解釈はひと通りだけであり、いくつもの解釈が存在する余地がありません。
 いや、「経典」は「完全」だが、解釈する「人間が完全でない」から多くの解釈があるだけだ、というかも知れません。すると、「経典」が「完全」である、と言えるスマナサーラ長老もまた「完全」ということになりそうですが、これはご本人が否定しています。
 いや、「経典」が「完全」とは言っていない「仏陀の言葉」が「完全」なのだ、と言うかも知れません。しかし、スマナサーラ長老は、「経典」以外の方法で、どうやって「仏陀の完全な言葉」を知ることができたのでしょうか。


 大乗仏教のカリスマである龍樹さんが自分の空論を立証する場合は、矛盾のないように空の立場だけしっかり相対論で証明してゆくのです。それで誰にも何も反論できなくなってしまう。
 しかし本人も相対論を持ってきて、「すべて空だ」と言ってしまったところで困ったことになったのです。
 だって、仏教はみんな修行して悟る世界でしょう?それをどうするのか、という問題が出てくるのです。
 龍樹の失敗は、「哲学を作るなかれ」というお釈迦さまの戒めを破ったことなのです。「ブッダの教えを争論のために、他の人の教えを破るために使うなかれ」というのは、お釈迦さまのキツイ戒めでした。仏道は自分でやってみるための教えなのです。龍樹は空を哲学化することで、目の前にあった「仏道」を見失ってしまったのです。
(P.108)


 スマナサーラ長老は、“一切は空であると悟ることによって解脱します”(P.83)と言ったかと思うと、今度は、龍樹について“「すべて空だ」と言ってしまったところで困ったことになった”と批判しています。
 それでは、その龍樹の「すべて空だ」という論、はいかなるものなのでしょうか。


 反論者の実在論的立場からすると、この「空であるものは一切のものである」という言明は、自己言及のパラドックスにからむと解釈できる。この点を、実在論者は、次のように指摘する。
 空論者の説く「空であるのは一切のものである」という否定言明は、言明の意味にしたがうと、この言明自体も空であると解釈しなければならない。「空である」とは「自性を欠く」ということである。
 ところで、自性を欠いているものとは、実在論者からすれば「存在しないもの」に等しい。実在論者にとっては、存在するもので自性を欠いたものなどありえないからである。したがって、そのような存在しないものによって、「空である」と否定するのは不可能であるとするのである。
 簡単に言うならば、「空であるのは一切のものである」という言明が成り立つためには、この言明自体は空であってはならず、そして空でないことになると、「空であるのは一切のものである」と言う、このことは成り立たないのである。実在論者は、このように、空論者のこの否定言明には矛盾があると指摘する。
 これに対して、空論者は、このように反論する。パラドックスを指摘するだけでは、実在論者は自分の主張「『空であるのは一切のものである』というこの言明は空ではない」ということを証明したことにはならない。・・・・・・・・・・
 さて、「空(縁起)」の体系を公理論的な体系とするなら、・・・「空であるのは一切のものである」というこの言明が「空」であることは、論証も論議もしきれないということがわかる。これは、ゲーデルの不完全性第一定理に対応している。第一定理とは「無矛盾な体系においては、決定不可能な、すなわち、真であるとも偽であるとも証明できないような命題がかならず存在する」ということを主張するものだからである。・・・・・・
 龍樹はほんとうに論理学の重要問題と自覚してこのような論議を述べているのであろうか・・・それについて証拠となるのは『中論』である。・・・・
 論争のなかで反駁をおこなうとき、空性をもちだして語る人は、何ものをも反駁できていないのであって、ただ証明すべきものに等しいものが生じているだけである
 ・・「証明すべきものに等しい」とは、「このままでは証明不可能」ということである。・・「空」の体系のなかには、偽であるとも真であるとも証明できない、つまり、決定不可能な言明があることになる。 
 『廻諍論』という題名は・・『論争打ち止めの論』と訳してもいいだろう。・・龍樹は、公理論による演繹論理学体系の枠を超えて、縁起の論理学がもつ弁証法(=問答法)の立場から、わたしたちに「空」を現観させようとするのである。
 「公理論による演繹論理学体系の枠を超える」とは、それぞれの体系内でのみ語るのではなく、存在論的な立場のちがいを認めて語ることであって、他者を承認して語ることである。それは、いわば、存在論を超えて認識論の地平に降りたつことを意味している。
 論者と敵者がいかに対立していようととも、認識においては、共通の題材をもちうるからである。ここに、たがいに「他者を認める」という基盤が生まれてくる。
 ・・・・
 たとえば、「縁起」を認めないと反論するならば、それだけで、もう「縁起」の関係のなかに自分をおくことになるのである。だから、ほんとうに「縁起」を認めないとするなら、それを態度で示して黙っているしかない。しかし黙っていれば、「縁起」を認めないことは相手に知られない。相手あっての自分なのである。自分が自分であるためには、相手と接しなければならない。ディレンマに陥るのである。
 けっきょくどうやっても「縁起」の関係からは逃れられないのである。そして、そうであれば、縁起の特徴である「空」は必ず会得される。「縁起」と言っても、「縁起」という固有の本質(自性)が、この関係にあるわけではないと知るのである。反論すると生ずるが、しないと止む関係である。
 「縁起」を見る者は、自他をふくむ一切が空性であることを見てとることになる。こうして、『廻諍論』第七〇偈で「この空性を会得する人には、すべてのものが会得される。空性を会得しない人にはいかなるものも会得されない」と述べられたのである。(石飛道子著『ブッダと龍樹の論理学 縁起と中道』サンガP.261〜271 引用承認済み)


 著者によれば、インド語は語順がいつも逆倒しており、中国語などに翻訳されたものは、ブッダの説く「悪しき語順の文句によって、経典を誤解して学ぶ」という問題があり、「空であるものは一切のものである」という言い方が原典に忠実な訳なのだ、ということです。
   
 龍樹の説く「空」とは「縁起」と同義であり、「縁起」とは「他者によって起こる」という関係だから、他者によって「問答」が起こされるかぎり「縁起」の関係は成りたち、「空」のパラドクスは消滅するかのようです。
 しかし、その相手が「問答」をしかけて来なければ、その相手にとっては、“黙っていれば、「縁起」を認めないことは相手に知られない。相手あっての自分なのである。自分が自分であるためには、相手と接しなければならない。”
 つまり、相手[B]は、自分[A]に対して、何らかの働きかけをしない限り、相手[B]は、[A]という相手、つまり「縁起」を得られないから、自分[B]にはなれないというのですが、働きかけをする前は、[B]は相手[B]にもなっていないし、[A]も自分[A]になっていないはずです。
 龍樹によれば、「有」は「無」によって成りたち、「原因」は「結果」によって成りたつものですから、「自分」もまた「相手」によって成りたつことは間違いないでしょう。
 しかし、[B]は、[A]に働きかけないかぎり、「相手」にも「自分」にもなれないのでしょうか。[A]以外の、[C]や[D]や[E]や[F]に働きかけても、「相手」や「自分」になることには変わりがないはずです。
 しかも、この[B]は、実在論者という設定ですから、もともと自分[B]という「自性」を持っていると考えており、相手[A]に対しても、自分[A]という「自性」を認めているはずです。
 すると、「相手あっての自分」というジレンマは、空論者[A]にだけあって、実在論者[B]にはない、と言うべきかも知れません。

 いずれにしろ、「空であるものは一切のものである」という立場は、実在論者からパラドクスを指摘されることによって、つまり問答を起こしてもらうことによって、ようやく成り立つ、というやっかいなものです。
 しかも、『中論』のこのくだりは、想定問答のようなものですから、「自己A」のなかに作ったもう一人の「自己B」という相手からの働きかけということになります。
 するとこのとき、作られた「自己B」に「自性」がないのは当然としても、主体である「自己A」には、「自性」を持つという可能性はないのでしょうか。

 「もう一人の自分」という観念は、おそらく人間に特有のもので、「自己対象化」による「自己疎外」という認識過程があてはまります。


 原始的な社会では、人間の自然にたいする動物的な関係のうちから、はじめに自然にたいする対立の意識があらわれるやいなや、人間にとって、自然は及びがたい不可解な全能物のようにあらわれる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 そうして、自然がおそるべき対立物としてあらわれたちょうどそのときに、原始人たちのうえに、最初のじぶん自身にたいする不満や異和感がおおいはじめる。動物的な生活では、じぶん自身の行為は、そのままじぶん自身の欲求であった。いまはじぶんが自然に働きかけても、じぶんのおもいどおりにはならないから、かれはじぶん自身を、じぶん自身に対立するものとして感ずるようになってゆく。狩や植物の採取にでかけても、住居にこもっても、かれはじぶんがそうであるとかんがえている像のように実現されずに、それ以外のものをもって満足しなければならなくなる。
(吉本隆明著『言語にとって美とはなにか』より)


 人間が「識」を持ち、やがて具体的な欲求を持って自然に働きかけるようになると、それが思いどおりにはならない、というジレンマにさいなまれるようになります。
 「動物的な生活では、じぶん自身の行為は、そのままじぶん自身の欲求であった。
 つまり、知っているとおりに行動できるのですから、「知行合一」ということができ、仏教ではこれを「悟り」といいます。
 ところが、人間の行動は次第に思い通りにはゆかないようになり、「じぶん自身を、じぶん自身に対立するものとして感ずるようになってゆく。
 つまり、自己対象化(自己実現)をはかる過程で「疎外」されることになりました。

(“十二縁起ー空と疎外-「悟り」へ ”より)


 つまり、人間の持つ「自己」という観念は、自然が人間にとって対立物となって現れたときに、「かれはじぶん自身を、じぶん自身に対立するものとして感ずる」ようになり、「もうひとりの自分」という「他者」を「疎外」することによって「自己」という意識ができあがったと考えることができます。
  
 龍樹による「縁起」の論法はなかなかに優れたもので、「自己」と「他者」も、「他者」があるから「自己」がある、「自己」があるから「他者」がある、という「相互依存」と言えるような論理を展開します。
 ここで、「他者」とは、文字通りに「他の人間」とも言えますが、「自己」という高度に抽象化された観念は、人間に特有のもので、「もうひとりの自分」という「対象化」つまり「疎外」の過程抜きにはとうてい成りたちません。
 つまり、「自己」のなりたちは「もうひとりの自分」という「他者」によって「縁起」されるもので、必ずしも「他の人間」という「他者」によってなりたつものではありません。
 従って、「他の人間」への働きかけや「問答」抜きでも「自己」は、既になりたっており、「自己」に「自性」を見いだす「実在論者」が現れるのも無理からぬものと言えます。
 逆に言うと、「実在論者」があらゆる存在や現象に「自性」があると考えるのは、「自己」という確固とした(と思える)「存在」があるからこそであり、「自己」という高度な観念がなければ、自他の区別もあいまいであり、「自性」や「実在」などというさらに抽象的な理念など思いつくわけがありません。ただ、「もう一人の自分」という「他者」によって「自己」が確立されたことは、忘れられているだけです。

 こうして、龍樹の「空(縁起)」論は、スマナサーラ長老が「反論できない」と言うように、矛盾のないものですが、「一切は空である」と言ったために、自ら「想定内」のパラドクスに陥り、しかし、解決できているともいえません。

 
 それでは、『般若心経』では、そのようなパラドクスは起こらないのでしょうか。 
 

<次回へ続く>
マダム・エムさまよりコメントをいただきましたので、こちらに転載させていただきます。http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2007/09/post_6398.html


南華さま

ご丁寧にありがとうございます。拙著をさっそく引用していただきまして、恐縮です。

いまは、ざっと拝読したところなので、もう少しくわしく検討してみたいと思いますが、ゲーデル問題を取りあげていただいて、「おお!」っと喜んでおります。
ここが一番むずかしいのではないかと思います。

>  すると、「相手あっての自分」というジレンマは、空論者[A]にだけあって、実在論者[B]にはない、と言うべきかも知れません。


これは、そのとおりです。ただ、実在論者は、縁起の関係に自分の身をおかないように、誰とも口を聞かないという人生になるかもしれません。なかなかたいへんです。

また、龍樹については、想定問答として、「自己A」と「自己B」をかれの中に考えておられますが、これはあたらないと思われます。
龍樹は、実際に存在した意見を採り上げております。有部やチャラカたちの実在論的な意見を採り上げています。ぜんぶ自分で想定した、のではないのです。相手の反論なり、意見なりを取りあげているのです。

その証拠に、ニヤーヤ学派とははっきり問答を起こしています。
そして、その結果、やがて、たがいにふれ合わぬような二つの論理学派が生まれました。
実在論者であるニヤーヤ学派は、今日あるような西洋論理学のような「自己の内部で想定問答する」学問にならないように、他者と論じるために「因果関係」を認めています。その上で、実在論的な要素も残すように努力したのです。

南華さまのブログの方にコメントする内容をついここに書いてしまいました。
『般若心経』論の続きを楽しみにお待ちしています。
投稿 管理人エム | 2007/10/04 08:15
 

マダム・エムさま
 
 待望の、龍樹本、読ませていただきました。
 丁度、知りたいことがズバリと書かれており、早速、拙ブログ記事に引用させていただきましたので、ご報告も兼ねまして、TBさせていただきました。
 また、ご意見などいただけましたら幸いでございます。

合掌
投稿 南華 | 2007/10/04 01:49
| 南華 | 2007/10/04 1:15 PM |

http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2007/09/post_6398.html

より転載


マダム・エムさま
 
 早速、拙ブログをお読みいただきまして、ありがとうございます。
 
>実在論者は、縁起の関係に自分の身をおかないように、誰とも口を聞かないという人生になるかもしれません。


 そうは、ならないのです。実在論者は、自己の自性だけでなく、相手の自性も認めているのですから、誰と口をきいてもお互いにもともと「実在」であり、逆に、話しかけられても、“シカト”されても「実在」はゆるがず、困ることはありません。
 むしろ、困るのは、「内なる自己との対話」によって、「自性」が脅かされることです。


>龍樹については、想定問答として、「自己A」と「自己B」をかれの中に考えておられますが、これはあたらないと思われます。
龍樹は、実際に存在した意見を採り上げております。有部やチャラカたちの実在論的な意見を採り上げています。ぜんぶ自分で想定した、のではないのです。相手の反論なり、意見なりを取りあげているのです。


 たとえば、今日行った討論を、夜、家で文字にする作業を行ったとします。すると、記憶やメモや録音などを利用して、相手と自分の言動を再構成するわけですが、機械的に録音をそのまま文字に起こす場合ですら、「じせいをこうていする」のは、「自性を肯定する」のか「時制を公定する」のか、文脈を理解しないと、つまり相手の立場に立ってみないとわかりません。相手の立場に立ってみるということは、自己のなかにもう一人の自己を想定することです。

 もともと、人間の「思考」とは、内なる「他者」との対話であり、「自己の内部で想定問答する」ことを禁じたら、「自己」(観念)どころか「思考」そのものが成りたちません。
 なにも、西洋人でなくとも、誰もが、ハムレットであり、管理人エムさまことオフェーリアも、無限に自問自答を繰り返して止みません。
 つまり、人間である限り、実在論者と言えども、「もうひとりの自分」という「他者」(縁起)なくして「自己」を獲得することはできないのです。
 「自己の獲得」とは、つまり「自己疎外」であり、その根底には「原生的な疎外」という生物には逃れられない宿命があります。
 「疎外」とはお釈迦さまの言う「苦」に他なりません。

投稿 南華 | 2007/10/04 11:01
| 南華 | 2007/10/04 2:05 PM |

 

http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2007/09/post_6398.html
より転載


南華さま

巧みなお話しぶりで、ついその気になりそうですが、ちょっとお待ちください。

南華さまが、観念的な「実在論者」をイメージしてるか、生身の人間である「実在論者」をイメージしてるか、ちょっとごっちゃのような気がします。
実在論者も人の子、「内なる自己との対話」によって「自性」が脅かされることもあるのです、というのでは、ちょっと龍樹は対応に困ります。

ですので、いちおう実在論者というからには、実在論的にアートマンなり自性なりを説く論者であるということにしていただきたいのです。

で、実在論者は、アートマンを説き自性を説きます。一つ大事なことは、誰に言われなくても、かれらはアートマンを説き自性を説くということです。
黙っている実在論者は、(論理的に)ありえません。黙っているのは、縁起論者(空論者)の方だからです。

言ってる意味がわかっていただけるでしょうか。
わたしたちは、言語を扱う名色の世界にいるという前提です。そこでは、議論をし、弁論をし、問答をします。
そこでは、実在論者は、実在するので、実在を何らかのかたちで示さなければなりません。何もしないなら実在するとはいえないからです。だから、(聞く相手がいなくても)アートマンを説き自性を説くのです。

そして、このとき、はじめて空論者が登場するのです。実在論者がアートマンを説いてくれて、はじめて、龍樹はアナートマンと答えられるのです。ここに縁起が成り立ちます。

かならずこのような構図になっています。
文献にあたって調べたときもそうですし、わたしが西洋論理学と問答したときもこのような構図になっていました。

問答それ自体が、すでに哲学思想の影響を受けているのです。その点を、ご理解くださるとありがたいのですが、いかがでしょう。

投稿 管理人エム | 2007/10/04 19:41
| 南華 | 2007/10/04 10:25 PM |

 

マダム・エムさま

 生身の実在論者であれ、観念上の実在論者であれ、それが人間である限り、かならず「内なる他者」としてのもうひとりの自分との対話(=思考)を行うものです。そしてその主体は、観念としての「自己」であり、生身の人間そのものではありません。
 すると「内なる他者」が空論者であれ、実在論者であれ、[他者」という「縁起」によって、双方の「自己」が成りたっていることは明確なのですが、お互いに気づくとは限りません。
   
 誰に言われなくとも、実在論者は、アートマンを説き自性を説きます。ただし、その相手は、生身の他人とは決まっていません。存在論のような抽象的な概念は、「内なる他者」との対話(=思考)がなくては、どうしたって形成できません。
 また、実在論者にとっては、「もうひとりの自分」「内なる他者」も「実在」であり、「名色」というならそれも「実在」として認識されるのは当然です。
 何もしない、というのは、空論者から見た場合であり、実在論者は常に「実在する内なる他者」に対してアートマンや「自性」を説いているのです。
 実在論者も「内なる他者との対話」によって「自性」が脅かされることがあるのですが、なにぶんにも、「内なる他者」も「実在」すると信じていますから、一筋縄では行きません。
 西洋だろうとインドだろうと、「内なる他者」を「実在」と認識できないようなヘッポコ実在論者なら、最初から論争など必要ないのです。

 それでも、哲学上の構図は龍樹のもの、というなら、スマナサーラ長老の言うとおり、「哲学をつくるなかれ」というお釈迦さまの戒めを破って「教えを争論のために使い」、「仏道」を見失った、ということになってしまうでしょう。

 空論者が「すべては空である」という限り、「筋金入り」実在論者の「やや優勢」は覆らず、覆すためには、彼の「自己」は「内なる他者」という「縁起」によって成りたっているという「自覚」を待つしかありません。
 そのとき、この、「筋金入り」実在論者の「自覚」は非常に徹底したものですから、文字通りの「自覚」(=覚醒・解脱)つまり「悟り」に達することになります。

投稿 南華 | 2007/10/04 22:21
| 南華 | 2007/10/04 10:37 PM |

 


南華さま

強固な論を展開されて、たじたじとなりつつ、体勢をたてなおしたいと思います。

> また、実在論者にとっては、「もうひとりの自分」「内なる他者」も「実在」であり、「名色」というならそれも「実在」として認識されるのは当然です。

実在論者の中に、「自己」と「内なる他者」が実在としているならば、一つのものに二つの実在があることになり矛盾です。
さらに、それらが、対話するのもおかしいです。独り言を二人(?)でブツブツ言うことになるのではないでしょうか。不変の実在は、変化せず、したがって聞く耳をもたないからです。「縁起」はおきないので対話もないのです。

というお話をしてもよいのですが、次の「般若心経」の空の解釈をお聞きしたいので、南華さまがおっしゃるように、「筋金入り」の実在論者が優勢ということで、龍樹は気にしないということにしたいと思います。(龍樹、ゴメンよ)。

投稿 管理人エム | 2007/10/05 19:40
| 南華 | 2007/10/05 8:30 PM |

 

ダム・エムさま

>実在論者の中に、「自己」と「内なる他者」が実在としているならば、一つのものに二つの実在があることになり矛盾です。
 
 それを、実在論者が認めてくれれば、この論争は、空論者の圧勝で、実在論者は廃業です。

 日本はともかく、欧米では、多重人格障害者の持つ、一人一人の人格を「事実」(実在?)として認定する裁判例も見られます。


>さらに、それらが、対話するのもおかしいです。独り言を二人(?)でブツブツ言うことになるのではないでしょうか。

 実際の対話でもよくあることです。
拙ブログ“『般若心経は間違い?』の間違い(一)”コメント欄をご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/nangeensha/e/9c6fc4086019db2dc33afa11a839d490

>不変の実在は、変化せず、したがって聞く耳をもたないからです。「縁起」はおきないので対話もないのです。 

 すると、実在論者は、思考停止となり、もう誰とも論争することなどできません。やはりこれで龍樹の圧勝です。
 
 今日は一日、コメントの対応に追われ、『般若心経』も先に進めませんでした。今から始めます。
 

投稿 南華 | 2007/10/05 22:20
| 南華 | 2007/10/06 5:05 AM |

 

南華さま

> すると、実在論者は、思考停止となり、もう誰とも論争することなどできません。やはりこれで龍樹の圧勝です。

ううむ、うまいですね。実在論者が負けちゃうと、龍樹も自動的に消えちゃいます。負けるが勝ち、の構図ですねぇ。
 
> 今日は一日、コメントの対応に追われ、『般若心経』も先に進めませんでした。今から始めます。

よろしくお願いします。ゆっくりお待ちしますので。

投稿 管理人エム | 2007/10/06 09:21
| 南華 | 2007/10/06 8:50 PM |

 

http://gotamivihara.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=317
はテラワーダ協会の掲示板ですが、
みつおという人が、長老は色即是空にりんごを持ち出すのなら、りんごは非りんごである。これが正しいことは誰でも分かりますね。と説明を始めるべきだった、色即是空に形式論理が適用できるはずがない。と長老に反論しています。
これが分かりやすかったです。
| y_iue | 2007/10/09 9:33 PM |

 

初めて、書き込みます。
内容の濃いコンテンツで驚きました。
内容とは全然関係ないのですが、一つだけ質問なんですが、かなりの量の引用文を上げておりますが、これは著作権には引っかからないのでしょうか。読み手としては説得力のある資料なので、全然文句などないのですが、取上げられている本がかなり最近のものばかりなので、大丈夫なのかとふと思いました。私も引用する事があるので、後学のためにも伺いたいのですが‥。
| zapo | 2007/10/10 12:27 AM |

 

ZAPOさま

 コメントありがとうございます。

 「転用」にならないように注意し、引用元を明示すれば、了解を取る義務はありませんが、できるなら「お知らせ」はしたほうがよいと思います。

 コメントをいただいている「管理人エム」さまが、(石飛道子著『ブッダと龍樹の論理学 縁起と中道』サンガ)の著者であることはご存知かと思います。
 
| 南華 | 2007/10/10 8:39 AM |

 

y_iue さま

 コメントありがとうございます。

>色即是空にりんごを持ち出すのなら、りんごは非りんごである。これが正しいことは誰でも分かりますね。

 全く理解不可能です。

 「りんご」は「非りんご」という「縁起」によって成りたっている。というならわかります。

 
 『般若心経は間違い?』に対して、納得できるどころか、筋の通った反論を見たことがありません。

 長老は、「漢訳『般若心経』は間違い」という証明には成功していませんが、「日本訳『般若心経』は間違い」なら、上手に証明しています。
 
| 南華 | 2007/10/10 1:33 PM |  

<続きを読む>『般若心経は間違い?』の間違い(十) 中観(一切皆空)と般若心経(五蘊皆空) 



『般若心経は間違い?』の間違い (十)
 それでは、漢訳『般若心経』の原文で、もう一度おさらいしてみましょう。

 観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。
 照見五蘊皆空。度一切苦厄。
 舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
 舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。
 是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。


 『般若心経』では、「五蘊皆空」とはいっていますが、「一切皆空」とは言っていません。
 「五蘊」とは「人間であることの五つの要素」というような意味で、「色・受・想・行・識」に分かれます。
 この「五つの要素」は、それぞれに同じ比重を占めているかというと、『般若心経』では、明らかに異なった扱いをしています。
 つまり、「色」だけを取り出して「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色」と、懇ろに扱いながら、「受想行識」はひとまとめにして「亦復如是」とされています。
 「色」と「受想行識」を分けて見るのは、後で出てくる「無色。無受想行識」も同様であり、つまり、「色」というソロと「受想行識」カルテットは、対等と看做されていることになります。

 「五蘊」のうち、「色」は「肉体」、「受想行識」は「こころ」を表すものですが、『般若心経』の言う「色」とは、あるがままの「肉体」のことではありません。
 あるがままの「肉体」とは、大自然、つまり宇宙の一部であり、素粒子や波動からできた「物質」と捉えることができます。
 「色」を「物質的現象」と誤訳してしまうのは、「あるがままの肉体」の意味に取り違えてしまうためと考えられます。

 しかし、日本語で「肉体」といえば、人間の身体のことであり、自分の「肉体」や、彼や彼女の「肉体」と考えることができるのは、「自己」という「意識」が、自分の「肉体」を占有しているという確信(思い込み)があり、さらに「類」という、人間に特有の概念により、人間一人一人の「肉体」をそれぞれの「自己」という「意識」が占有していることを確信しているためです。
 これは、誰にも教わらなくても、人間でさえあれば、「人間」とはそういうものだという人類共通の認識となっています。
 
 自然の一部である「物質」から生まれた「生物」もまた自然の一部のはずですが、「生物」であれば、何であれ、無機的な自然とは「異和」を持つものであり、このような「異和」を「原生的な疎外」と位置づけることができます。
 つまり、「生物」とは、生まれながらに、自然と「疎外」の関係にある存在であり、生まれれば、いつか必ず「死」を迎え、「物質」に帰ることが宿命づけられています。("十二縁起ー空と疎外-「悟り」へ”参照)

 「生物」は自然との「原生的な疎外」関係を保ちつつ、自然の一部であることには変わりなく、逆に「生物」にとって、自然は自分の身体の一部でもあります。
 ところが、人類が「意識」を持つようになったとき、今までは自分の身体の一部であった自然が、自分に対立するものとして立ちはだかるようになり、何でも思い通りには行かなくなった人間は、自然をどうにもならない巨大なものと感じ、いっぽう自分自身に対しては、思い通りにならない不満を持つようになります。つまり、自分自身に対して不満を言う「もう一人の自分」が生まれます。
 逆に言うと、「意識」とは「もう一人の自分」である、という言い方も可能です。
 やがて、このような、自然との「異和」は、どの人間の「意識」にも記録され、人間と自然の「異和」の関係は、人類共通の「意識」となります。
 すると、人間は、自分たちを同じ仲間、つまり「類」として認識するようになり、自然を人間の外側にあるものとして理解します。
 ところが、同時に、自分以外の人間は、自分と対立する自然の一部でもありますから、やはり、自分の「意識」に「異和」として記録されます。
 つまり、それが「他者」であり、「他者」という概念と同時に、「他者」を認識する自分自身、つまり「自己」という概念が次第に形成されるようになります。

 「自己」を持った人間は、自分が自然と一体であったときと同じように、自然や他の人間、つまり「他者」に対して、ふるまおうとしますが、思うとおりには行かないことに気がつきます。
 そして、自分に「意識」があるように、「他者」にも「意識」があることを発見します。つまり、「自己」の「意識」と「他者」の「意識」は、いつでも同じではなかったのです。しかし、「他者」の「意識」がどのようなものかは、なかなか窺い知ることができません。
 逆に、「もう一人の自分」が「こいつを殺して食べ物を奪おう」と囁いても、目の前の「他者」には聞こえません。すると、目の前の「他者」が自分を殺そうと思っているかもしれません。
 それに、人が死んだら、「肉体」が滅びることは理解できますが、眼に見えない「意識」はどうなるのでしょうか。

 既に自然の一部ではなくなってしまった人間が、生き延びてゆくためには、「他者」との関係をスムーズにすること、つまりは「他者の意識」を知ることと、「自己の意識」を「他者」に伝えることがどうしても必要であり、そうでなければ、今日の食料やねぐらを手に入れることすら困難になります。
 すると、「自己」と「他者」がお互いの「意識」を知らせ合うためには、自分の考えを「意志」として「他者」に示すとともに、「他者」の「意志」を表示してもらう必要があり、そのため、「他者」と「対話」をするようになります。

 この段階では、人間は既に「言語」を持っていますから、言葉でコミュニケーションをとることができますが、かつては身振り手振りや動作だけで「意志」が通じたのに、次第に複雑な「概念」を持つようになった人間は、かえって「意志」の疎通が困難になってきます。
 「対話」によって「意志」を伝え合うことも、そう簡単なことではなくなっており、「対話」で「意志」の疎通ができないなら、自分が「他者」の立場に立って考えなければ、その「意志」を知ることができません。

 既に人間は自然との「異和」を感じたときから、何でも思い通りにはできない自分自身に対して、不満を持つ「もう一人の自分」を「意識」に記録しており、今度は「もう一人の自分」を「他者」に仕立てて、「内なる他者」との「対話」を行い、外にいる「他者」の「意志」を推し計ることができるようになっています。
 人間の「思考」とは常に「自問自答」であり、「もう一人の自分」つまり「内なる他者」がいなければ、「自己」の獲得ばかりか「思考」することができません。

 「他者」と「対話」するときでも、「内なる他者」との「対話」は常に行われており、「相手はこう言っているが、その真意はどうなのだろうか?」とか「自分の意見を言いたいが、相手を怒らせるとまずい」あるいは、「この情報は自分だけのものにして黙っていよう」、という具合に、実際の「対話」と「自問自答」が同時進行するものです。
 つまり、現代の我々と同じように、表現を間違えたり、相手を誤解したり、誤解されたり、疑念を持ったり、疑われたり、騙したり、騙されたり、することがあり、「対話」は慎重に行わなければなりません。

 「他者」とは、自分以外の人間や「内なる他者」、そして「自然」であり、特に「自然」や死んだ人の「意識」つまり「霊魂」との対話ができる人間は「シャーマン」とされ、「シャーマン」を通じて、人間に「意志」を示してくれる「自然」は「神」とも呼ばれるようになりました。
 「シャーマン」とは一種の人格障害であり、自分のなかに「神」や「霊魂」という「他者」をとりこんで「対話」ができるほか、「神」や「霊魂」が憑依して、直接その言葉を、人々に伝えることができます。
 「シャーマン」は、「内なる他者」である「神」や「霊魂」を「実在」と信じており、「自己」を含めた、あらゆる「現象」に、物質的か、心霊的か、などという区別はなく、すべて「実在」と認識せざるを得ません。

 人間が、自分以外の人間や「自然」を「他者」、自分を「自己」と認識する過程では、必ず、「もう一人の自分」つまり「内なる他者」を認識する必要があり、「内なる他者」なくしては「自己」を形成することができません。
 このような、人間と自然との「異和」の関係のことを「疎外」といい、特に、人間が「他者」を「認識」することによって「自己」を獲得することを「自己疎外」といいます。
 「自己疎外」によって「自己」を獲得した人間は、「自己」の「肉体」と「意識」、「他者」である人間(=同類)の「肉体」と「意識」さらに、外界としての「自然」を「認識」するようになります。

 ところで、人間にとって、「自己」とは、常に「自問自答」する「もう一人の自分」であり、むしろ「肉体」こそが本来の自分自身と感じられるものです。
 なぜなら、人間が「こころ」の働きと感じるものは、ほとんどが内臓や脳など「肉体」に付随するものであり、「こころ」のはたらきを「言語」で表現すると、

 「胸がワクワクする」
 「胸がキュンとする」
 「腹が立つ」
 「ムカツク」
 「はらわたが煮えくり返る」
 「断腸の思い」
 「頭にカッと来る」
 「肝が縮む」
 「血の気が失せる」
 「冷や汗が出る」
 「鳥肌が立つ」
 「手に汗握る」
 「目頭が熱くなる」
 「眼を見張る」
 「鼻白む」

 など、どれもこれも「肉体」のはたらきに他ならず、「こころ」という「肉体」のはたらきは「言語」に、つまり概念化して「意識」に記録され、ようやく「こころ」を「他者」に伝えることができます。
 「意識」に記録された「こころ」は、既に「意志」によって「言語」に編集されて「認識」になっており、さらに「意志」によって再編集され、「心にもないこと」を話したりするようになります。
 「肉体」のなかでも「心臓」は、昔から「こころ」の臓器と考えられており、「こころ」は「肉体」に宿る、というのは、人類共通の感覚です。
 そして、

 「この胸の高鳴りを如何せん」
 「腹を割って話す」
 「頭を冷やして考える」

などと「こころ」のはたらきを観察し、コントロールしようとするのが、「もう一人の自分」としての「意識」です。
 「こころ」と「肉体」との結びつきが非常に強いのにくらべ、「こころ」と「意識」、つまり、「肉体」に依存する自分自身と、「自己」の「意識」とは、文字通り「一心同体」ではありません。
 
 「五蘊」のうち「色」は「肉体」、「受想行識」は「こころ」の働きと、前に述べましたが、すこし厳密に言うと、「受」と「想」が「こころ」の機能で、「行」と「識」が「意識」の機能と言う事もでき、もっと厳密には、「受」は「感受」で、「想」は「イメージ(=こころ)」、「行」は「意志」で、「識」は「意識」ということになります。
 なかでも、「受」とは「肉体」を通じて得られた一次情報、「想」とは「受」からの情報で生じる「イメージ」(こころ)で、二次情報、これらの情報をまとめて「行」は「意志」を決定し、「意志」は「認識」として「識」に記録されます。「識」に記録された「認識」は、随時に取り出され、三次情報として、「想」や「行」に送られ、新たな「意志」決定に大きな影響を与えます。

 既述のように、仏教には、「存在」や「認識」の仕組みを解明する概念として「十八界」という「法」があり、そのうち「眼界・色界・眼識界」というのが、眼に見える世界、つまり画像的なイメージや認識の要素として分類されています。
 すると、「五蘊」の「色」というのは、「肉体」といっても、「眼に見える世界」というニュアンスを含むものであることが推測できます。
 つまり、「色」とは、「受」の側からみると「肉体」そのものではなく「肉体」からの「情報」をもたらす情報源、ということができます。
 「色」からの「情報」は、「受」にとってはすべてであり、「自己」のものか「外界」のものかを問わず、「肉体」が感知したすべての「現象」や「存在」は、「色」から「受」に「情報」としてもたらされ、「受」にとっての「色」とは、「あらゆる存在や現象」つまり、全「世界」、全「宇宙」ということになります。
 そして、「色」という「情報」は、「想」や「行」で加工されてから「認識」として「意識」に記録されます。

 そうすると、「五蘊皆空」というのは、「色」が全「世界」で、「受想行識」が「こころ」や「意識」のはたらきですから、「すべては空である」のと同じではないか、と思うかも知れません。
 ところが、「色」が表す全「世界」とは、あくまでも「肉体」が感知した「情報」としての「世界」であり、「世界」そのものではありません。
 
 ならば「色即是空」とは、どのような意味になるのでしょうか。
 「色」は、「肉体を通じて認識する全世界としてのあらゆる存在や現象」ですが、思い切り省略して一言にしてしまえば「現象」ということができ、「現象の認識」と言い換えることもできます。
 「空」とは、「同時的相互関係および前後的因果関係(の認識)」ですが、思い切り省略して一言にしてしまえば「関係」ということができ、「関係の認識」と言い換えることもできます。
 「空」は「縁起」ともいわれ、「縁起」とは「前後的因果関係」と思われ勝ちですが、「自己」と「他者」のように「同時的相互関係」も含むものです。
 すると「色即是空」とは「色=空」ですから、「肉体を通じて認識する全世界としてのあらゆる存在や現象は、同時的相互関係および前後的因果関係の認識と等しい」、または、「現象の認識は、関係の認識と等しい」、さらに、「現象と関係は等しい」ということになり、「空即是色」と転換しても全く同じことになります。
 『般若心経』は「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」と、「色=空」すなわち「現象=関係」であることを繰り返して確認しています。 

 このように、『般若心経』の「五蘊皆空」は、「中観派」の「すべてが空」とはずいぶん違っており、「中観派」のように「実在論者」からパラドクスを指摘されることがありません。
 なぜなら、『般若心経』が「空」だと言っているのは、「五蘊」を通じてみる「世界」であり、人間の「認識」としての「世界」です。
 現代でこそ、「量子論」によって、物質的現象は「素粒子」と「波動」などのエネルギーからなるもので、「観測」しだいで結果が変わるような、あてにならない「不確定」なものであることが知られています。
 しかし、『般若心経』の作者が、当時からそれを見越していたわけではなく、存在や現象が、人間から見てどう見えようとも、それは、ただ「関係」として「認識」できるだけで、そこに「アートマン」のような「自性」や「実在」があるかどうかなど、人間に分かるわけがありません。
 
 すると、「実在論者」が、「すべての存在や現象には『自性』があり『実在』するものである」、と主張しても、「般若心経空論者」は、「それはただ『関係の認識』に過ぎず、『自性』も『実在』も『関係』としてしか『認識』できない」と言う事ができます。

 ところが、「あらゆる事象は『関係の認識』にすぎない」、といっても、だから「自性」がない、とか、「実在」ではない、という証明にはならず、「実在」しようがしまいが、「人間から見てそう見えるだけで実体は分からない」ということになってしまいます。
 これは、宇宙物理学者ホーキングの宇宙論とよく似ていることに気がつきます。ホーキングは「宇宙が実際にどうなっているかは永久に分からない、分かるのは人間にどう見えるかだけだ」と言っています。つまり、人間の「認識」には限界があり、どんなに科学が進歩したところで、すべてが解明できるわけではない、ということです。
  
 しかし、「実在論者」はどのようにして「自性」や「アートマン」を「認識」することができたのでしょう。
 「実在論者」のルーツは「シャーマン」であり、「実在」する「神」や「霊魂」との「対話」によって、人類が生き延びてきた、と信じていますから、「存在」の主観的な証拠なら山ほど持っています。
 しかし、「対話」ができたからと言って、「神」や「霊魂」が「実在」するという証拠にはなりません。「対話」も、「神」や「霊魂」などの「名称」も、ただの「関係」であり、「シャーマン」は、「神」という「関係」を「認識」しただけで、「実在」を「認識」した訳でありません。
 また、「対話」とは「自・他」という「同時的相互関係」ですから、「対話」によって「認識」できるのは、「関係」であって「存在」ではなく、まして「実在」を「認識」することはできません。 
 また、「シャーマン」は、「神」や「霊魂」が「存在」する証拠として、「剣」や「鏡」のような、「くだされもの」を提示することがあります。
 この場合、「MAID IN JAPAN」ではないか?、というようなことはどうでも良く、「神がくれた剣」という「認識」は、「神がくれた」という「関係」と、「剣」という「関係」を「認識」しているのであり、「神がくれた」という「自性」や「剣」という「自性」を「認識」しているのではありません。
 「神がくれた剣」という「現象」を「認識」するのは「五蘊」であり、「五蘊」によって「認識」できるのは「現象」という「関係」でしかありません。
 通常、「実在」という「現象」は起こりませんから、「認識」することもできませんが、もし仮に、「実在」という「現象」を「認識」することができたとしても、それは「実在」という「関係」を「認識」することであり、「実在」を認識したことにはなりません。「自性」がある、という「現象」についても全く同じことです。
 このように、「シャーマン」は、「神」や「霊魂」という「実在」や「自性」があることを確信することはできますが、「証明」どころか「認識」することもできません。
 同様に、人間は誰でも、あらゆる「存在や現象」に関わる「実在」や「自性」を「現象」として「認識」することができたとしても、それは「実在」や「自性」という「関係」を「認識」しているだけで、「実在」や「自性」そのものを「認識」できているわけではありません。

 「実在論」のなかでも、インド哲学の「アートマン」という思想は、哲学化されているだけに、もう少し合理的であり、「輪廻」という否定できない「現象」は「アートマン」がないと、うまく説明できません。
 「輪廻」だって、客観的には証拠がないのですが、インドでは古くから「輪廻」はあると信じられてきましたから、主観的な証拠ならいくらでもあり、「輪廻」という「現象」を「認識」することは、インドに限らず、いくらでもありうることで、お釈迦さまも「輪廻」を否定はしていない、といいますから、「仏教」としても否定しきれなかったのです。
 
 初期の仏教では、「諸行無常、諸法無我」つまり、すべては相対的で、「縁起」という因果関係によってなりたっており、「アートマン」は存在しない、と主張しましたが、「縁起」は「輪廻」と矛盾しない、というよりは、「十二縁起」のように、上手に「輪廻」を「因果関係」として取り込むことができ、「アートマン」があるかどうかは、ただ水掛け論になります。

 初期仏教の時期をすぎると、仏教も次第に「哲学化」し、「有」論が生まれ、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」などの「法」は「実有」であり、「法」に分類できるものは存在し、分類できないものは存在しない、従って「法」に分類できない「アートマン」は存在しない。ただ、存在するのは、一瞬一瞬に生じ、滅し去る「自己」の相続体があるにすぎない、と言い、「生滅」による「無常」を説きます。この辺は「量子論」に近いところがありますが、「還元論」になっていないので、現代版の「空」論とは全く異なります。また初期仏教時代の「縁起」という考え方は、重視されなくなってしまいます。
 「有」論によって、「アートマン」は存在しないことが「証明」されましたが、その後もインドでは「アートマン」が信じられ、「有」論を展開した仏教は残っていません。

 そのころ、つまり「有」論が隆盛だった時代に、龍樹という人が現れ、『中論』という著作を発表しました。
 龍樹の主張は、一切の事象には「自性」がなく、それが何であるかは、すべて「縁起」によって決まる、というものです。 
 「縁起」とは「空」とほぼ同じ概念ですが、「(他に)縁りて起こる」という文字通りに、「有」と「無」のような対立する概念であっても、それぞれ独立には存在しえず、相互に依存し、また相互に規定しあっており、それによって「有」と「無」は成りたっている、つまり、あらゆる事象は、対立的本質を含む相対的関係をもっている、といいます。
 しかし、この「対立」はたんなる「分別」から出たものに過ぎず、この「分別」は執着のもとであり、私たちは「無分別」の立場にたち、対立に拘らない「中道」の立場に立ってこそ、執着を離れることができるのです。


 『中論』「第二章、去来の考察」(1−25)より

1.すでに去ったものは去らない。まだ去らないものも去らない。すでに去ったものといまだ去らないものを離れた、現在去りつつあるものも去らない。
2.(反論)ふるまいのあるところには動きがある。去りつつあるとき動きがあるから、去ってしまったときも、いまだ去っていないときも、ふるまいはない。去りつつあるとき動きがあるから。
3.現在去りつつあるものに、どうして去るはたらきがあるだろうか。現在去りつつあるもののうちに二つの去るはたらきはありえない。
4.去りつつあるものに、去るはたらきが有ると考える人には、去るはたらきがなくても、去りつつあることが起こることになってしまう。なぜなら、去りつつあるものが去るからである。
5.去りつつあるものに去る働きが有るならば、二つの去る働きが同伴する。つまり、去りつつある客体としての去る働きと、去りつつある主体としての去る働きである。
6.二つの去る働きが同伴するならば、二つの去る主体が同伴する。何故なら去る主体を離れて去る働きはありえないから。
7.もし、去る主体を離れて去る働きが成立しないのであれば、去る作用がないのに、どうして去る主体が存在しうるだろうか。
8.去る主体は去らない。去る主体でないものも去らない。去る主体でもなく、去る主体でないものでもないものは、去らない。
9.去るものが去る、ということは成立しえない。去る働きなしには去る主体は成立しえないのだから。
10.去るものが去ると主張する人は、去る作働きがなくても去る主体がある、という誤った認識を持っている。何故なら、去る人がさらに去るという働きをもつとするからである。
11.もし、去る人が去るというなら、二つの去る働きがあることになってしまう。すなわち、去る働きによって去る客体と規定される去る働きと、去るものが主体として去るところの去る働きとである。
12.すでに去ったところに去ることはない。未だ去らないところにも去ることはない。今去りつつあるところにも去ることはない。どこに去ることがあるだろうか。
13.去る働きを起こす前には、今去りつつあるものはない。すでに去ったものもない。それらにこそ去る働きがあるはずなのに、未だ去らないものにどうして去る働きがあるだろうか。
16.去る働きなくしては去る主体が成立しえないときに、まず去る主体が住する、ということがどうして成立するだろう。
18.去る働きが去る主体であるというのは正しくない。去る主体が去る働きと異なっている、というのも正しくない。
20.もし、去る主体は去る働きと異なると分別するなら、去る主体がなくても去る働きがあることになる。また、去る働きがなくても去る主体があることになる。
22.去る働きによって去る主体と規定されるなら、去る主体は去る働きから去ることができない。何故なら去る主体は去る働きを持つと認められる以前には主体として認められないから。何が何に去ろうとするのか。

 一般的に「去る」とは、自分から遠ざかって行く行動を意味する概念ですが、「行く」という意味で使われることも多いものです。
 「去」というのは、梵語では“ganta”であり、「行く」という意味なのだそうです。『般若心経』の呪文「揭帝」は、梵語で“gete”となっており、「往くもの」というような意味とされております。(長老によると、主語抜きで「行ってしまった」という意味になるそうです)
 なお、英訳では“go”と訳されている由ですから、全く、単純に「去る」を「行く」に読み換えないといけません。
 すると、[1]は、「すでに行ったものは行かない。まだ行かないものも行かない。さらに、すでに行ったものと未だ行かないものとを離れた、現在行きつつあるものも行かない」ということになります。
 この『中論 第二章、去来の考察』は、非常に難解なことで有名ですが、「去る」が「行く」こと、と分かれば、それなりの読み方で、意味が理解できそうです
 それでは、この章で、龍樹は何を言いたかったのでしょう。


 龍樹の言う「去りつつあるものは去らない」を否定して、反論者が「去りつつあるものは去る」と主張するならば、「去りつつあるもの」にもともと「去ること」があることになり、その人が動いてなくても「去りつつあること」が起こることになるだろう。
 この説明で了解した人は問題ないが、ピンとこない人もいるかもしれない。「去りつつあるものなのだから、去っているのじゃないか」と思ってしまった人は、「去りつつある」という言葉に「去る」という「動き」「作用」を認めてしまっている人である。「それはあたりまえだろう、だって去りつつあるものなのだから」と思う人は、西洋論理学のものの見方に近い人である。
 先に「縁起」の見方を「自性を欠くから空である」と見るように説明した。つまり、想いや、それを表現する言葉に、自性(=その言葉の意味)があると思ってはいけないのである。それが縁起的な理解である。「去りつつあるもの」についても同じである。「去りつつあるもの」それ自体は、「去ること」という自性を欠くから空である。と見なければならない。「去りつつあるもの」は本当に去りつつあるのかどうかは、次の言葉を待たなくてはならないのである。これは、私たちにとって、言葉のわなとなる。「去りつつあるもの」と聞いただけで、「去っているのだ」と考えるなら、その言葉に自性(=その言葉の意味)を認めてしまっていることになる。
石飛道子著『ブッダと龍樹の論理学 縁起と中道』サンガ P.236 引用了解済)

 「去る」を「行く」と読み換えていないので、分かりづらいのですが、「行く」といっても、誰が、何時、どこから、どこまで「行く」のか、「行って来る」のか、「行ってしまう」のか、学校や会社へ「行く」ように、日常的に反復する行動なのか、彼岸へ「往く」とか天国へ「行く」ように、一度きりの行動なのか、それによってまるで違う意味になってしまいます。
 もともと「言語」で表現されるものは、なんらかの「概念」であり、「行く」という言葉は、「行く」という「関係」を「概念」として「意識」に記録したものです。
 しかし、「言語」の意味も「空」であり、「去る」といっても、意味は「行く」ことであるように、使ったときの前後の意味や、時代、地域の違いなどの条件、つまり「縁起」によって、同じ「言語」でも全く違った意味になってしまうことがあります。

 私たちの持つ、「行く」という「概念」は、「行く」という「言語」になって私たちの「意識」に記録されています。
 私たちは、「行く」という言葉によって、「行く」ことをイメージすることができますが、それがどのようなものかは、一人一人の「認識」によって全く違ったものになってしまいます。
 すると、「行く」という「言語」の示す「関係」と、「行く」という「行動」、つまり「現象」の示す「関係」とは、まったく同じではありません。

 [3〜5]、では、「行きつつあるもの」には「行く働き」がないと言います。
 「行きつつある」とは、「現在進行中」であることを表現しているのですが、実際に今このときに「行く」という「現象」を観察しているわけではなく、かつて見たことがあるか、「言語」から「イメージ」したことがある、「行きつつある」という「現象」を、「意志」によって言語化し、「認識」として「意識」に記録し、その「認識」を再び取り出して、「イメージ」化し、さらに編集して「意志」に変換し、ようやく「行きつつある」という高度に抽象化した「概念」として提示することができます。
 「概念」も万人共通ではなく、「行きつつある」も「現在進行中」ではなく「出発直前」と「認識」する人もいますし、逆に「到着直前」と考えることもありえます。これも、その人の「認識」によって「関係」が異なるものです。 

 さらに「行きつつあるもの」とは、「現象」として「行きつつある主体」つまり、「行く」という「意志」をもって「現在進行中である誰か」というさらに複雑な「概念」になってきます。
 ここまで抽象化しますと、実際に「行きつつあるもの」という「現象」を見たことがあると言える人はいるでしょうか。
 もちろん「現在進行中の人」を見ることは日常的にしばしばあることですが、その人が「行く」という「意志」をもって「現在進行中」であることをどうやって知るのでしょうか。こちらから「行く」と見えても、その人にとっては「帰る」途中かも知れません。
 しかたがないので、その人は「今○○へ行く途中です」などと、「観測者」に向かって、のべつ話しながら歩いている、ということにでもするしかありません。
 
 「行きつつあるもの」という「現象」は、「観測者」という「主体」から見て、「行くという意志をもって現在進行中の主体」という「客体」であることが理解されます。するといったい、この「行きつつあるもの」は「主体」なのでしょうか、「客体」なのでしょうか。
 またこの「観測者」は、そのような現場を見たことがあるとしても、「意識」に記録された「認識」を「意志」によって再構成した「観念上の現象」を見ている「観念上の観測者」と言えます。
 「観念上の観測者」ですから、被観測者の「内なる他者」も「観測者」になることができますが、その場合、自分の「意志」や「行動」を「観念上の現象」として再構成することになります。

 さらに、「行きつつあるもの」という概念は、「行きつつあるもの」という「現象」を「関係」として表現したものの筈ですが、この「現象」は、「観念上の観測者」の主観によって膨らんだ「観念上の現象」であり、さらに「主体」と「客体」が入り交じり、矛盾を孕んだ「関係」の集合体になっています。
 
 次に「行くはたらき」とは何でしょうか。
 「行く」というのは、今は「言語」の意味としての「関係」であり、これを、眼に見えるような「行く」という「現象」に転化すること、つまり「行動」という、別の「関係」に変換させる「意志」の作用を「行くはたらき」と考えてみます。
 すると、ここでの「行く」という「現象」は、やはり「観念上の現象」であり、誰が行くのか、いつ行くのか、何処へ行くのか、何しに行くのか、どうやって行くのか、などの「関係」をすべて捨象した上で、「行く」という純粋な「関係」だけを、恣意的に取り出したしたもので、「主体」どころか、「観測者」の立ち位置すら見えません。
 「行くはたらき」という、本来なら「意志」の作用と見るべき「現象」は、さらに抽象化された「概念」であり、まるで、「重力のはたらき」のような「自然現象」と同レベルに扱われています。「自然現象」なら、「意志」や「主体」があってもなくても、「現象」(関係)として「認識」でき、「自然現象」という「関係」として記録できますが、「行くはたらき」となると、「主体」もないのに「意志」をともなう「関係」を仮定しているので、相当に無理した「概念」といえます。

 [4〜5]「行きつつあるものに、行くはたらきがあるか」という命題を考えますと、「主体」としての「意志」を持って「現在進行中」と「観測」される「客体」に、「自然現象」のような仮想の作用としての「意志」がある、ということですから、確かにこれは、龍樹の文章の通り、「行きつつあるもの」に「二つの行くはたらき」がある、ということになってしまいます。
  
 しかし、「行きつつあるもの」という「関係」と、「行くはたらき」という「関係」は、既述の通り、非常に無理をした、観念上だけの、矛盾を孕む「関係」であり、成りたたないはずですが、ここでは言及せず、「二つの去るはたらき」が付加されることだけを矛盾としています。

 [6]、ここでは、[5]で問題にした「行きつつあるもの」に「二つの行くはたらき」が付加するなら、「行きつつあるもの」には「二つの主体」が付加すると言います。これは[4]で検証したとおりです。
 [7]、[6]の「行く主体」がなければ「行くはたらき」もない、ことから、「行くはたらき」がないから「行く主体」もない、と言います。何だか堂々巡りのようですが、「行くはたらき」は成りたたない概念なので、もともと決着しています。

 [8]、「行くもの」(行く主体)は「行かない」、「行かないもの」は「行かない」という、「第二章」のなかでも難関とされるところですが、ここは、[7]までの内容を踏まえて考えないといけません。
 「行くもの」は「行くはたらき」をもっているから、「行く」という「行動」を起こせるはず、ですが、「行くもの」というのは、「行くもの」とは、別の主体である「観測者」から見て、「行く」という「関係」と、「行く主体」という「関係」を「観測」できる場合に成りたつ概念です。「別の主体」と言っても、「行く人」の「内なる他者」も「別の主体」になりうるものです。
 もちろん「行くもの」も「言語化」された「概念」ですから、「行くもの」という「現象」を、「関係」つまり「認識」として「意識」に記録している、というわけではなく、「観念上の現象」としての「行くもの」でしかありません。
 従って、「行くもの」がどんな姿をしているのか、とか、何処へ行くのか、いつ行くのか、などという「関係」は、捨象されています。
 「観念上の現象」ですから、それをみる「観測者」も「観念上の観測者」であり、「行くもの」という「分別」を行う「主体」となります。
 「行くもの」という「現象」は、「観測者」という「主体」から見て、「行くという意志をもって進行しようとする主体」という「客体」であることが理解されます。
 さらに、「行くもの」という概念は、本来「行くもの」という「現象」を「関係」として表現したものの筈ですが、この「現象」は、「観念上の観測者」の主観によって膨らんだ「観念上の現象」であり、さらに「主体」と「客体」が入り交じり、矛盾を孕んだ「関係」の集合体になっています。
 つまり、「行きつつあるもの」とあまり変わりません。
 
 「行くもの」が「行かない」のは、「行きつつあるもの」の場合と同じく「行くはたらき」がないためであることが、[9]で論証されています。
 「行かないもの」(行く主体でないもの)も「行かない」というのは、やはり「行くはたらき」がないためと思われます。
 「『行くもの』でも『行かないもの』でもないもの」は、やはり「行かない」のです。それが何であれ、「行くはたらき」がないので「行く」ことはありません。
 
 この調子で続くのですが、検証したとおり、必ずしも、順序がよく、精密で正確な分析とは言えないし、言っていることは、どうにか分かりますが、同じことを何度も、ぐだぐだと並べ立てて、かえって分かりにくくなっています。

 想いや、それを表現する言葉に、自性(=その言葉の意味)があると思ってはいけないのである。それが縁起的な理解である。「去りつつあるもの」についても同じである。「去りつつあるもの」それ自体は、「去ること」という自性を欠くから空である。と見なければならない。(再掲)

 「龍樹の代弁者」として信頼する著者の解説ではありますが、果たして、ここは「言葉の自性」という問題でしょうか。それに「言葉の意味」=「自性」となると、もともと、あらゆる「現象」に「自性」は「無い」のですから、「言葉」には「意味」がないことになってしまいます。
 
 もちろん「言葉」には、必ずなんらかの意味はありますが、どんな「言葉」であれ、「言葉の意味」とは「関係」、つまり「空」であり、持っている「認識」が変われば、「言葉の意味」も変わってしまいます。
 「言葉の意味」は「言葉の自性」と言えるような強固なものではなく、非常に不安定な「関係」に過ぎません。
 にも関わらず、「意味」として「言葉」に付加された「概念」を、そのまま「現象」の再体験としてイメージに取り込んでしまうのは、もともと「概念」は「言語」によって構成されるという特性があるためと考えられます。
 「行きつつあるもの」に「行くはたらき」があると考えるのは、「言葉」が、抽象化された「概念」であることに気づかず、かつて体験したことの有る「現象」や「認識」であるかのように、勘違いするためであり、「概念の実体視」という言い方がされます。
 「概念の実体視」とは、「行くはたらき」のような、非常に抽象的な「概念」を、「自然現象」のような、より具体的に見える「現象」と同じように感じてしまう、ということです。
 しかし、「空」であることは、「概念」も「自然現象」も同じことなのですから、「概念」を「実体視」することは、「自然現象」を「実体視」することと、なんら変わらないのではないでしょうか。
 「一切は空」と言いながら、「言語」という「概念」の「実体視」だけを特に問題にする必要はないはずです。
 どんな「現象」であれ「空」であることには変わりがないのに「言葉の実体視」を取り立てて糾弾する龍樹の姿勢をなぞってみると、「言語」には「より実体がなく」、「自然現象」などには「より実体がある」という「分別」を感じてしまうのです。
 「自然現象」は「現象」として「体験」できるものですから、「肉体」などと同じように、「実体がある」と感じやすいものです。
 しかし、どんな「自然現象」でも、たとえば「ブッダを育んだインドの大地」とか「ふるさとの山や川」とか「母なる海」とか、なんらかの「概念」や「理念」を付加して「認識」されるものです。
 このことは、たんに「地」「山川」「海」と言い換えても、「地」という「概念」、「山」「川」という「概念」、「海」という「概念」抜きに、それらの「現象」を「あるがままに」、「認識」することができません。
 「地」を「土」、「山」を「突起」、「川」を「水流」、「海」を「塩水」などと、より還元的に、つまり「因果」的に、言い換えても、ただ「ラベル」を張り変えているだけで、「概念」であることには違いありません。
 「概念化」とは「言語化」にほとんど等しいもので、人間は、どんな「現象」を見ても、なんらかの「名称」をつけて「認識」します。
 「名称」には「言語」ではなく「記号」に過ぎないものもあります。「記号」には「概念」が含まれないはずですが、「007」や「0157」「24」などのように、「名称」である限りは「概念化」して「認識」されるようになります。
 
 人間は、どんな「現象」でも、「現象」そのものを「認識」できるわけではなく、「概念化」つまりは「言語化」して「認識」します。仏教では、これを「名色」といいます。
 「色即是空」の「色」は「名色」と理解すると、「空即是色」も理解しやすくなります。
  龍樹は、「自然現象」などの「物質的現象」といわれるようなものについて、どう考えていたのでしょうか。


 「『中論』第四章 蘊の考察」(1〜9)より

1.色の原因を離れた色は認識されない。また色を離れた色の原因もまた認められない。
2.もしも色が色の原因を離れているのであるならば、色は原因の無いものであるということになる。しかし、原因のないものはどこにも存在しない。
3.それに反して、もし色を離れた色の原因なるものが存在するのであるならば、結果をもたらさない原因が有るということになるだろう。しかし結果をもたらさない原因は存在しない。
4.色がすでに存在するのであるならば、色の原因なるものは成立しえない。また色がすでに存在しないのであるならば、色の原因なるものは、やはり存在しえない。
5.さらに原因をもっていない色なるものは、全く成立せない。それ故に、色に関しては、いかなる分別的思考をもなすべきではない。
6.結果が原因と似ているということは成立しえない。結果が原因と似ていないということも成立しない。
7.感受作用(受)と心と表象作用(想)と、もろもろの潜在的形成作用(行)とーこれらすべてのものは、いかなる点でも全く色と同じ関係が成立する。


 訳は、中村元さんのものをベースとしており、『般若心経』と同じように、「色」を「物質的要素」と訳していましたが、訳語として妥当かわからないので、「色」に戻してみました。
 すると、「色」の「原因」がなくては、「色」という「結果」がない、という言い方で、「色」という「現象」は「縁起」によって起こることを述べています。
 「色」も「空」だと言っているのですが、「色=空」とは、まったく言っていません。
 「受想行」その他、については、「色」と全く同じだと言います。「色」に費やす文字数が多くて、「受想行」については、「色」と同じ、というところは『般若心経』と似ています。


「『中論』第十章 火と薪との考察」(1〜16)より

1.もしも、「薪がすなわち火である」というのであれば、行為主体と行為はとは一体であるということになるであろう。またもしも「火が薪とは異なる」というのであれば、薪を離れても火が有るということになるであろう。
2.また永久に燃えるものであるということになり、燃える原因をもたないものであるということになるだろう。さらに火をつけるために努力することは無意味となってしまうであろう。そういうわけであるならば、火は作用をもたないものとなる。
3.他のものとは無関係であるから、燃える原因をもたないものとなり、いつまでも燃えていて、火をつけるために努力することは、無意味となってしまうのである。
4.それについて、もしも、この故に、燃えつつあるものが薪であるというならば、まず、この薪が燃えつつあるのみであるときに、その薪は何によって燃えるのであろうか。
8.もし薪に依存して火があり、また火に依存して薪があるのならば、いずれが先に成立していて、それに依存して火となり、あるいは薪が現れることになるのであるか。
9.もしも薪に依存して火があるのであるならば、薪はすでに成立している火の実現手段である。ならば、火の無い薪もあることになるであろう。
12.火は薪に依存してあるのではない。火は薪に依存しないであるのではない。薪は火に依存してあるのではない。薪は火に依存しないであるのではない。
13.火は他のものからくるのではない。火は薪の中には存在しない。この薪に関して、その他のことは、いま現に去りつつあるもの・すでに去ったもの・未だ去らないものによって説明されおわった。
14.さらに火は薪ではない。また火は薪以外の他のもののうちにあるのではない。火は薪を有するものではない。また火のうちに薪があるのでもない。また薪のうちに火があるのでもない。また薪のうちに火があるのでもない。



 「火と薪」という、これまた有名な章ですが、「火は薪に依存してあるのではない。火は薪に依存しないであるのではない。薪は火に依存してあるのではない。薪は火に依存しないであるのではない」というのが、結論というかメインテーマのようです。
 「第二章」と同じように考えるなら「燃えつつある薪は燃えない」という話になりそうですが、「燃えつつあるものが薪であるというならば、まず、この薪が燃えつつあるのみであるときに、その薪は何によって燃えるのであろうか。」
 「火」も「薪」も、擬人化すれば「主体」になりうるのですが、龍樹は、そうは考えなかったらしく、そのような展開にはなっていません。もし、「火」や「薪」を「主体」にすると、「自性」を認めることになりかねないと、思ったのでしょうか。
 しかし、擬人化しないから、とか、「主体」でないから、といって、「実体視」していない、ということにはなりません。
 
 「火と薪」というと「西洋論理学」でいう「卵とニワトリ」の喩えににていますが、「卵とニワトリ」のほうは、「卵」をどう定義するかだけで、簡単に結論が出てしまいます。つまり「卵一般」なら、ニワトリより昔からあったはずですし、「ニワトリから産まれた卵」なら、先に「ニワトリ」がいないと存在しません。
 もし、「これから孵化してニワトリになる卵」ということになると、「野鶏を家禽化したとき最初のニワトリになった卵」だけは、ニワトリよりも先にあった筈ですが、他の卵はやはりニワトリよりも後から登場したものです。

 「火と薪」の場合は、「火」は「薪が燃えたときに出る火」という定義なら「薪に依存」していますが、「火一般」なら「薪に依存している」とは言えません。
 また、「薪」の定義は、「木材等を、燃やすために適度な大きさに切ったもの」ですから、「薪」のほうは「火」に依存していると言えます。
 もし、「薪」が「火に依存していない」となると、「薪」ではなく、「木片」になってしまいます。
 つまり「薪が火に依存している」と言えるのは、「薪」という「概念」は「火」(燃焼)という「概念」に依存しているから「薪」という「名称」で「認識」されるのであり、「火」という「概念」がなければ「薪」という「概念」も成りたちません。
 すると、「薪は火に依存してあるのではない」というのは、間違いかも知れません。
 はっきり「間違い」と言えないのは、「薪という概念は火という概念に依存してあるのではない」と言っているわけではないからです。
 しかし、そうなると、龍樹は本当に「空」を理解していたのだろうか。という疑念が生じます。
 『般若心経』の「空」つまり「関係の認識」という立場から見れば、「火」も「関係」、「薪」も「関係」であり、「火と薪」という命題は、ただ「関係」の問題として解決することができます。
 『般若心経』は「唯識論」の影響を受けている可能性があり、そういう意味では、『般若心経』の成立は、『中論』より後の時代という「定説」は頷けるものがあります。
 しかし、漢訳『般若心経』は、法相宗の大家たる、玄奘三蔵の訳とされており、「唯識論」的要素があるのは、そのためかも知れません。
 龍樹の時代には、まだ「唯識」は出ていなかったと考えられるので、当時の「空」理論に「関係」や「認識」を期待するのは無理かも知れません。
 『般若心経』と「中観」の共通点は、あまり見られず、「中観」と「般若心経」の関係は全く「不明」です。


<次回に続く>『般若心経は間違い?』の間違い(十一)空即是色という呪文


 言葉について、やや例外と言えるのが「言霊」という思想で、発した「言葉」には「魂が宿る」つまり「自性」がある、ということになります。
 ただし、あくまでも「発した言葉」であり、「音声心理学」的に解釈すれば、「言霊」によって、人が精神的な作用を受けることには、案外合理性があるものです。 
 また、「言葉」といっても「霊符」などのように、書かれた文字なら、「図形心理学」的な解釈ができますが、言葉に「自性」があるということにはなりません。
 「道教」の「記号類型論」による「人生成型理学」つまり「占術」には「音声心理学」や「図形心理学」を利用した「姓名学」があり、結果をだしていますが、基本が「記号類型論」ですから、「自性」の介在する余地がありません。




『般若心経は間違い?』の間違い (十一)
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)109頁より

 地球の重さをグラム単位で量ったり、一日に地球の重さがこれぐらい増えるとか減るとかグラム単位で計算したって、「だから何?」という話です。無駄話です。
 しかし、役に立つ話は無駄話ではありません。
 たとえば「雷というのは神様ではない。雲の中に静電気が溜まって、いちばん放電しやすいところで放電しているのだ。という科学者の意見は、道徳的なのです。なぜなら、雷の発生メカニズムがわかれば、どんな場所に逃げればよいか知ることができるからです。
 

 スマナサーラ長老は、「仏教は心の科学」と仰る割には、「科学ぎらい」のようです。
 「雷」については、1752年、アメリカの政治家で科学者のベンジャミン・フランクリンが、「凧」を使って、「雷」が「静電気」で起ることを確かめました。
 「雷」が「静電気」であることが分かったため、人類は「雷」の被害からずいぶんと解放されました。「避雷針」の発明です。
 一般的に「避雷針」は、「アース」することによって、「雷」の電気を地下に逃がすものと思われています。それも間違いではありませんが、実は、「避雷針」には、「静電気的シールド」という原理により、「雷」の発生を抑制する働きがあるのです。
 
 雷雲が発生すると、上空の雷雲はマイナス、地表はプラスに帯電します。このとき、「避雷針」の先端は、予め放電しやすいように、金メッキなどが施されており、「先端放電」という現象が起こります。つまり、地表のプラスイオンが空気中に放出される現象です。
 すると、空気中に大量のプラスイオンが存在することになり、雷雲に帯電されたマイナスイオンを中和してしまったり、雷を拡散させることができます。
 「静電気シールド」は「ファラデーシールド」とも呼ばれ、電子部品を「静電気」から守る「静電気シールドバッグ」などにも利用されています。
 
 ベンジャミン・フランクリンは、雷雨の日に「凧揚げ」をし、危険を冒して「雷」が「静電気」である、という「仮説」を証明しました。
 いったい、それが何の役に立つのか、当時の人々は理解できませんでしたし、フランクリン自身だって、すべてを予知していたわけではなく、もっぱら、彼の知的好奇心が、彼を「冒険」に踏み切らせたのであり、必ずしも「道徳的」な動機で、「凧揚げ」をしたわけではありません。
 それに、これだけで、「雷」のメカニズムがすべて解明されたわけではなく、「イオン」のような、つまり「地球の重さをグラム単位で量る」ような、基礎科学の発達によって、ようやく「避雷針」という発明が可能になったのです。

 それに、「どんな場所に逃げればよいか」だけのことなら、「雷」のメカニズムなど、知る必要がありません。
 必要なことは、雷がどのような条件で落ちているか、また落ちていないかを、徹底的に統計を取り、落ちる確率が大きい条件を排除し、小さい条件を取り入れることで、充分に「雷」を避けることができるようになります。
 むしろ、「雷」が「電気」であることが知られたために、「雷」は「金属」のものに落ちやすいという、間違った常識が生まれ、かえって被害に遭う例が数多くあります。
 実際には、「雷」は、「尖ったもの」に落ちやすいことが、「統計的」にわかっています。すると、樹木の下などに立つことは非常に危険であり、かといって、広野を走って逃げるくらいなら、その場に伏せたほうがよほど安全ということになります。
 タイやスリランカなどでは多く見られる、「仏塔」なども「尖ったもの」ですから、もしかしたら「雷」が落ちやすいのかもしれません。あるいは、石造で先端や全体に金なども使われていますから、導線がなくても、アース状態になり、「プラスイオン」を空中に放出して、周囲を「雷」から守っている可能性もあります。
 日本の法隆寺の五重塔は、八百年間落雷に遭っていないと言われます。塔の先端に九輪と呼ばれる、丸い金属の飾りがついているのですが、実はここに、鉄の鎌が4本挿してあり、雷よけのおまじないになっているそうです。ただし、アースされているとも思えないので、「静電気シールド」かどうかは分かりません。
  
 「科学」は、人間にとって「役に立つ」ものですが、「役に立つ」という目的ばかり先行しますと、もっぱら「利益」優先となり、特に儲かる「兵器」などの開発に使われるようになります。 
 「科学」が発達する原因は、人類の「知的好奇心」にあり、「役に立つ」という「道徳」ではありません。
 もし、仏教者が「科学」に「道徳」を求めるなら、まず第一に「殺生」に使わせないことであり、殺人の「役に立つ」ことがないように戒めるべきです。

 このブログでは、ここまでだけでも〔十回〕にわたり、スマナサーラ長老の著書『般若心経は間違い?』について、その「間違い」を指摘してきました。
 すると、読者のなかには、私どもが、長老を馬鹿にしたり、「大乗仏教」のほうが「小乗仏教」よりも正しい、という主張をしているかのように思う人がいるかも知れません。 
 しかし、長老の『般若心経』に対する批判は、漢訳『般若心経』に関しては、「間違い」と言わざるを得ないものの、和訳『般若心経』に限れば、非常に妥当で、目の付け所が良く、特に「空即是色は間違い」という主張に対して、納得できる反論どころか、筋の通った反論を展開したものは、私の知る限り、本ブログ記事を除いてひとつもありません。

 次に引用するところは、日本の「大乗仏教者」が、「しょせんは戒律を守るしか能のない小乗仏教」などと、馬鹿にして通り過ぎそうな主張ですが、ならば、きちんと答えることができるのか、というと、「空即是色」すら説明できない「仏教者」に、答えられるわけがありません。
 
 ですから語るならば、役に立つように語らないといけないのです。「こうしなさい」という提案がないといけない。ただ観念的に「苦集滅道という四聖諦はない」という権利は誰にもないのです。言うべきなのは「苦集滅道はこのように理解してください。そのほうがあなた方に役に立ちますよ」という慈しみからの提案です。
 私は『般若心経』の作者に聞きたいのです。「あなたは私に何を言っているのか?お釈迦さまが存在の秘密を全部ばらしてくれたのに、それが無いといとも簡単に言えるのか?」と。
(P.110~111)
  
 それでは、『般若心経』の「教え」は、どのように「役に立つ」のか、「どうしなさい」と言っているのか、長老に対して、何を伝えようとしているのか、解明したいと思います。
 その答えは、『般若心経』の冒頭に、すでに表現されています。

 観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。
  照見五蘊皆空。度一切苦厄。


 「観自在菩薩」とは、「観音菩薩」とも言われるように、「虚心に人の話を聞くことができ、柔軟で囚われのない、自在な心で物事を観ることができる修行者」という意味です。「修行者」といっても、すでに「自在心」を持っており、つまりは「空」を悟っていますから、さらに、人々を「悟り」に導くことができ、いずれは「仏陀」とか「如来」になれる、非常に高度なレベルの修行者です。(部派仏教では認めていない、とかいうことは、ひとまずおいて下さい)
 「行深般若波羅蜜多時」は、「深遠なる智慧の完成の行を行ったとき」、つまり「お釈迦様が初めて悟りを開いたとき」と同じシチュエーションと考えたら良いでしょう。あるいは、そのときのお釈迦さまのこと、と考えても同じことです。 

 「照見五蘊皆空」は、「人間であること(自己と他者を分別すること)の五つの構成要素(苦の原因)は、すべて空であることを、明らかにして見せてくださり」であり、観自在菩薩が新たに見た、というのではなく、衆生に対して明らかにした、という意味です。
 「度一切苦厄」は、「一切の苦しみや災難をから人々を救うこととなりました」となります。
 この、二句を合わせた意味は、「肉体と心によって自己と他者とを分別することが苦の原因であり、自在な心で、物事に囚われない認識を持つことができれば、あらゆる苦の原因から解放される」ということになります。

 「人間であること」とは、「自己」と「他者」を「分別」できる「認識」を持つことができる、つまり「自己」という「意識」を持っていることが「人間であること」です。
 「自己」という「意識」を持つことで「類」という概念や「他者」という概念を持つことができるようになり、逆に「他者」という概念によって「自己」という「意識」が生まれます。

 それまで、自分の「肉体」は、自然の一部であり、自然が自身の一部だったのですが、「自己」という「意識」の獲得とともに、自然は、自分の身体ではなく、巨大な「他者」に変化します。
 また同時に、自分以外の人間たちも、「他者」であり、かつ「同類」と「認識」するようになります。
 このように、人間が「自己」を獲得することを「疎外」または「自己疎外」と言います。
 人間が、自然から「疎外」され、「自己」を「疎外」し「他者」から「疎外」され、ここから、すべての「苦しみ」が生まれます。
 「疎外」とはすなわち「苦」のことであり、「疎外」の原因は、人間に特有の、「自己」と「他者」という「認識」もしくは「意識」によるものです。
 つまり、「自己」と「他者」を「分別」するものは、「意識」であり、「意識」と「肉体」の集合体である「五蘊」こそは、「苦」の原因ということができます。
 そして、「五蘊」が「空」であるということは、人間が「現象」として「認識」できるものは、すべて「肉体」と「意識」によって生じる「関係」という「認識」であり、人間の「苦」とは、すべて「関係」でしかありません。 
  
 つまり「苦」とは「空」であり、「関係」でしかないと知ることによって、本質的な「苦」の原因を取り除くことができます。
 たとえば「自己」という「関係」は「他者」という「関係」によって生じており、「自己」と「他者」を対立させる「分別」こそが「苦」の原因であり、そのような「分別」を消し去ることで、「苦」を消し去ることができます。
 「分別」を消し去ることで「苦」も消えることは、誰でも理解できそうですが、その通りに行動しようとすると、なかなかできるものではありません。
 たとえば、同じお釈迦さまの教えを受け継いだ「仏教」なのに「大乗仏教」とか「小乗仏教」とか「部派仏教」とか、「分別」することによって対立し、さらに、自派や自派の教理に「執着」し、他派を排撃することに血道をあげ、かえって「苦」の原因を増やすことになりました。
 このようなことは、誰でも分かることで、「分別」や「執着」を捨てることで「苦」を一つでも減らすことができるのですが、「分かっちゃいるけどやめられない」のが人間なのです。
 ならば、「知っているとおりに行動できる」ようにすれば、人間の「苦」は消し去ることができる筈です。

 仏教では、「知っているとおりに行動できる」ことを「悟り」といいます。といっても、「知っていること」が間違っていたら、そのとおりに行動しても、かえって問題が大きくなるかも知れません。
 すると、「悟り」には「正しい知識」が、絶対に必要であり、そのため、「仏教」には、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」「四聖諦」などという「法」があり、「苦」の原因がどこにあり、どうしたら「苦」を消し去ることができるかを学ばなければなりません。

 なかでも、「五蘊」には、その他の「法」がすべて含まれており、「十二処」と「十八界」は、ただ「五蘊」を、より詳しく分類したものに過ぎません。
 また「十二縁起」は「五蘊」が「苦」の原因であることを、展開して、空間的、かつ、時間的に述べたもので、「五蘊」からはみ出すものではありません。
 「四聖諦」は、もっと具体的に「苦」の原因と解決法を示していますが、「五蘊」が「空」であることを完全に理解し、かつ、そのとおりに行動できれば、つまり「五蘊」が「空」であることを「悟り」さえすればよく、結局は「五蘊」から一歩も踏み出すものではありません。
 
 舎利子。
 色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。
 受想行識亦復如是。


 「舎利子」とは釈迦の弟子で「智慧一番」といわれた「サーリプッタという人のことです。ここでは「観自在菩薩」が「舎利子」に対し、「空」について説いているのですが、「サーリプッタ」は「阿羅漢」で、新米の「観音」などより格上だとか、「観自在菩薩」は「如来」に次ぐ高貴な仏だとか、「分別」や「執着」による対立が激しく、前述のように、ここでの「観自在菩薩」は「悟り」を開いたお釈迦さまの仮の姿としたほうが良いと思います。

 まず、「色不異空、空不異色」とは、要するに「色」と「空」は同じである、ということです。
 次の、「色即是空」と「空即是色」は、反復ではなく、意味が異なると、主張する人がいますが、それでは、そのまえの「色不異空、空不異色」は、いったい、どう解釈するつもりなのでしょうか。
 
 何度も述べているように、「色」とは、「肉体を通じて認識できるあらゆる存在や現象」のことであり、「空」とは「同時的相互関係と前後的因果関係」(の認識)のことです。
 「色」と「空」が同じ、ということは、「肉体を通じて認識できるあらゆる存在や現象」とは「同時的相互関係と前後的因果関係」を認識しているに過ぎない、ということになります。
 
 「色」は単に「肉体」と訳されたり、逆に「物質的現象」と訳されたりもしますが、どちらも間違いとはいえませんが、どちらも正しくありません。
 「色」は「名色」と同じ、と看做すのが最も妥当な見方であり、もともと「肉体」から「受想行識」に入る「情報」のことですが、「受想行識」に入ると「名称」や「概念」をともなう「認識」に変化しており、「名色」と呼ばれるようになります。

 「色即是空、空即是色」というのは、「色不異空、空不異色」と全く同じことで「色と空」は等しい、という意味以外のなにものでもありません。
 「空即是色」の意味は、次のようなもので、どの表現をとっても字数が多いか少ないかだけで同じことです。
 「同時的相互関係と前後的因果関係」であるものは、「肉体を通じて認識するあらゆる存在と現象」であるものである。
 「関係」であるものは「現象」であるものである。
 「関係」の認識は「現象」の「認識」である。
 「関係」は「現象」である。
 
 「五蘊」のうち、特に「色」だけを取り上げて、しつこく「空」と等しいと言っているのは、「受想行識」に入る情報は、すべて「肉体」を通じた情報、つまり「色」に依存するものだからです。
 生まれつき持っている「業」とか「テレパシー」などは、「肉体」を通じた情報とは言えないではないか、と思う人もいるかも知れませんが、もし「生まれつき」「業」を持っていたとしても、おそらく、受精より前から持っていることはできませんし、「テレパシー」も脳の特殊な機能と考えることができますから、やはり「色」からの情報と言うべきです。

 「受想行識亦復如是」は、「受想行識」も「色」と同じく「空」に等しいものである、という意味になります。
 訳すと、「認識することとは、関係を認識することであり、現象を認識することに等しい」ということになります。
 「受・想・行・識」を切り離して、「受即是空」「想即是空」「行即是空」「識即是空」と読みたい人もいるようですが、そうなると、「色=受=想=行=識=空」ということになってしまい、「受想行識」の定義を変えなければいけません。

 「受想行識」は、「こころ」と「意識」の機能を表す「法」ですが、「空」であること、つまり「色」という「現象」を「関係」として、つまり「名色」に変換して「認識」するのが「受想行識」であり、「受」の機能、「想」の機能、「行」の機能」「識」の機能、というのは、「こころ」と「意識」の機能を分解して分かりやすくしたものであり、「十二処」や「十八界」のように、いくらでも細かく分類することができます。
 「色」や「空」との、相関を考えるなら、「受想行識」と、ひとまとめにして考えるべきです。
 実際、『般若心経』には、この後で、「無色、無受想行識」という字句が出ており、「五蘊」は、「色」と「受想行識」とに分けて考えられていることは間違いありません。
 人間が「認識」することとは、すべて「関係」を「認識」することであり、「関係」を「認識」することは、あらゆる「現象」を「認識」することなのです。
 そして「現象」と思っていることが「関係」に過ぎないことを理解すれば「分別」や「執着」こそが「苦」の 原因と分かり、「自在心」によって「苦」を解消するようになります。
 「空を悟る」ということは、あらゆる「分別」や「執着」から自由になり、知っている通りに、行動できるようになることです。

 『般若心経』のなかでも「色即是空、空即是色」という文言は、わずか八文字で、「苦」とは「空」である、ということを端的に述べており、いつでも、それを思い出すことができるよう「呪文」という形に編集したものです。
 冷静なときなら、仏教徒でなくとも、誰でも「分別」や「執着」に囚われてはならない、くらいのことは理解できているはずです。
 ところが、いざというとき、つまり、欲しいものが手に入らないときや、恐怖を覚えるとき、快楽の誘惑に駆られるとき、などのピンチに遭遇したとき、普段と変わらない冷静な判断ができなければ、「空を悟った」ことにはなりません。
 そんなときに「色即是空」の一言でも思い出せれば、「いま目の前で起こっていることは、現実ありのままではなく、私の肉体と意識というフィルターを通してみた認識でしかないのだ」
 「ただちにこれがすべてと思ってはいけない。見方を変えてみれば、もっと違った状況として認識できるかも知れない」
 「今そこにいる異性に魅力を感じる。どうしても手に入れたいと思う。しかし、どうしてこの異性に魅かれるのだろう。何か私の意識に記録された認識やイメージがあるのかも知れない。それが何か分かればこんな衝動は抑えられるかもしれない」
  
 「思考」とは「自問自答」することですから、「色即是空」によって、「現象」は「関係」であることが思い出せれば、次々に「自問自答」する「内なる他者」を呼び出し、冷静で、客観的な目で、遭遇したピンチに対処できるようになります。
 『般若心経』を「呪文」として利用する場合、最後の「呪文」だけを唱えるのは、最も効果の薄い方法であり、ほとんど得るものはありません。この点は、長老の言うとおりです。
 逆に最も効率の良い方法は、「色即是空、空即是色」とだけ唱え、同時に「今見ている現象は関係を見ているだけだ」と念じます。声明だけだと意味を考えなくなってしまい、文字通りの「空念仏」になってしまいます。
 浄土宗などでは、延々と念仏を唱え続けますが、ついには「自分が念仏を唱えていることを忘れてしまい、阿弥陀如来と念仏と自分が一体になった境地に導かれる」というようなことをいいます。しかし、すぐに効果の出るものではなく、あまり効率の良い方法ではありません。
 もう少し記憶の良い人なら、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是」と唱え、同時に「今見ている現象は関係を見ているだけだ」と三回念じます。
 もっと記憶の良い人なら、「観自在菩薩」から「不増不減」まで唱え、同時に「今見ている現象は関係を見ているだけだ」と六回念じます。
 さらに記憶の良い人なら、「観自在菩薩」から「亦無得」まで唱え、同時に「今見ている現象は関係を見ているだけだ」と十二回念じます。
 ただし、「無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得」というのは、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」「四聖諦」など「法」と呼ばれる「苦」の原因について「無い」、つまり「苦」が解消される、と言っており、「教学」として学んだ上で、意味をよく理解して唱えないと、効果がありません。もっとも、仏教用語を覚える効果くらいはありますが。

 「以無所得故」から後は、読んで、よく理解しさえすれば、覚える必要はありません。もちろん、唱えてはいけないということもありません。
 
 「舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減」とは、「舎利子よ、このもろもろの存在や現象は関係でしかなく、関係抜きには、生じたり滅したりはしないし、穢れたり清らかでもないし、増えたり減ったりもしません」
 言い方を変えれば、「すべてが関係でしかないのだから、生じたのかそれとも滅したのか、汚いのかそれとも清いのか、増えたのか減ったのか、などという、分別もない」という意味になります。

 「分別」は「苦」の原因であり、「分別」と「執着」から自由になれば、人間の「苦」の多くは解消されることになります。
 「生じる」という「現象」も、ただの「関係」であり、そのような「概念」として「認識」するだけのことに過ぎません。
 たとえば、人間の「受胎」「養生」「長生」「沐浴」「冠帯」などのうち、どの時点を「生じた」と言うのでしょうか。
 もし、
「受胎」したことを「生じた」と言うなら、「養生」つまり、受精卵が胎内で胎児になることは、受精卵が「滅した」ことになります。
 もし、
「養生」を「生じた」と言うなら、「長生」つまり出産は、胎内から胎児がいなくなるのですから、「滅した」ことになり、胎外から見れば、胎児が出てくるのですから「生じた」ことになります。
 もし、
「長生」つまり、出産を「生じた」と言うなら、「沐浴」つまり胎を出たばかりで、まだ羊水や血液や胎脂などにまみれて、人の子とも思えない胎児を産湯にいれて清め、人間らしい赤子にすることですから、胎児が「滅し」て、赤子が「生じた」ことになります。
 もし、
「沐浴」を「生じた」というなら、「冠帯」つまり成人することは、赤子が赤子でなくなるのですから、「滅した」ことになります。
 つまり、何かが「生ずる」ことは、別の何かが「滅する」ことであり、「滅する」ことは「生ずる」ことでもあります。

 「長生」が「生」で、「老死」が「滅」などというのは、「現象」は「関係」としてしか「認識」できないということの証明であり、言い方を変えれば「思い込み」に過ぎないということです。
 人間は「生滅」のような純化された、つまり何が「生滅」するのかさえわからない抽象的な「概念」としての「言語」を、イメージ化して「意識」に記録してしまい、「長生」なら「生」、「老死」なら「滅」というふうに、よく考えたら、何が「生じた」のか、何が「滅した」のかさえ不明のまま、「認識」してしまうのです。
 「生滅」とは「見かけ」だけの「現象」であり、現代では、物質が消滅するとエネルギーに変化することが知られていますが、何かが「生ずる」ことは、必ず、何かが「滅する」ことでもある、ということは、「分別」や「執着」のない「自在な心」で見れば、つまり「空を悟る」ことで、得られる「智慧」と言えます。

 「不垢不浄、不増不減」も、「不生不滅」と同様に考えたらよく、ここまでの話を理解されていれば、誰でも当てはめることができるはずです。
 「悟り」とは「智慧を得ること」だといわれますが、「智慧」であって「知識」ではない、ということが、よくお分かりかと思います。
 ならば、「知識」は必要ないかというと、そうではないことは、既に述べたように、持っている「知識」が間違っていたら、いくら「智慧」を働かせても、間違った行動をしてしまいます。
 「知識」とは何かといえば、「情報」を取捨選択し、系統だてて整理されたものを言います。
 さらに、「知識」のなかから、自分にとって役立つものを取捨選択して使うことを「知恵」と言います。
 「情報」から「知識」に、「知識」から「知恵」につなげて行くものが「智慧」であり、「悟り」によって「智慧」が完成します。
 ところが、何もないところから、自分で「情報」を選択し、「知識」にまとめ、さらに取捨選択して「知恵」に変える、などということは、いくら「智慧」のある人でも、できるものではありません。
 「仏教」には「教学」というものがあり、「智慧」つまり「悟り」に至るのに必要な「知識」を、整理、集積しており、「仏教」を学ぶことは、「悟り」への最短距離といえます。

 是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得

 「ですから、空のなかには、色も無く、受想行識も無く・・・」
 と始まるこの部分は、お釈迦様が説いたものといわれ、「仏教」の「教学」の中でももっとも重要とされる、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」「四聖諦」「智慧」「悟り」を、ひとまとめにして「無い」と断じています。
 「上座部仏教」、つまりお釈迦さまの教えだけを忠実に守っているという、スマナサーラ長老が怒るのも無理はないのですが、少し冷静になって、見る角度を変えて観ていただかないといけません。
 『般若心経』の「教え」は、どのように「役に立つ」のか、「どうしなさい」と言っているのか、長老に対して、何を伝えようとしているのか、その答えは、『般若心経』の冒頭に、すでに表現されています、と最初に述べました。
 その「冒頭」とは、

 観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。
 照見五蘊皆空。度一切苦厄。


 つまり「自在心」を持つ修行者「観音」が、深き「智慧」の行を行った時、「五蘊」は、みな「空」であることを人々の前に明らかにしてくださり、一切の「苦」厄から逃れる術を教えてくれました、という意味ですが、どうして「五蘊」が「空」なら「苦」がなくなるというのでしょうか。
 既述のように、「五蘊」とは「人間であることの五つの要素」というべきもので、人間は「五蘊」によって、「自己」と「他者」、人類と自然、などの「分別」ができるものです。
 ところが、この「分別」こそが、人間にとって「苦」の原因であり、「分別」から生じる「執着」こそが、あらゆる「苦」の元になっています。
 つまり、「五蘊」とは「苦」の原因と言えます。
 「五蘊」は「色・受・想・行・識」に分かれますが、さらに細かく分類すると「十二処」や「十八界」というものになります。
 また、「五蘊」を立体的に展開し、時間的、つまり因果的な要素を加えたものが「十二縁起」です。
 すると、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」とは、どれも「苦」の原因を分類整理したものです。
 つまり、「空の中には、五蘊も十二処も、十八界も、十二縁起もない」というのは、「空」を理解すれば、「苦」の原因もすべて消えてしまう、という意味になるはずです。
 ならば「四聖諦」つまり「苦・集・滅・道」はどうかというと、「苦」は、「苦」そのものであり、「八苦」ともいいます。「八苦」には「生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦」の八項目があります。
 「集」とは、「苦の原因」のことで「五蘊」つまり「色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊」の五つを言います。
 「滅」とは、「苦を避ける法」であり、「不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒」によって「苦」を避けることができるようになります。
 「道」とは、「苦を滅する法」であり、「八正道」ともいいます。「八正道」には「正語・正業・正命・正勤・正見・正思・正念・正定」という八つの項目があります。
 なかでも「正語(正しい言葉)・正業(正しい行為)・正命(正しい生活)・正勤(正しい努力)」なら、心がけ次第で、何とかできるものですが、「正見(正しい見解)・正思(正しい思考)・正念(正しい観念)・正定(正しい禅定)」となると、こころがけだけではどうにならず、非常に高度な修行が必要です。
 「八正道」の目的は、既に生じてしまった「苦」を解消することですが、「空」を「悟」れば「苦」は生じなくなり、「道」も必要がなくなります。
 「道」によって「悟り」を得る、という人もいますが、「空」を理解した人なら、「空を悟る」こともできるはずですから、まずやるべきことは、「空」を正しく理解し、次に「知っている通りに行動できる」ようにするべきです。
 仏教では、そのような誤った考え方を「顛倒」と言い、「顛倒」を自覚することによって、突然「悟り」を得ることがあります。これは、特に「禅」に見られる考え方です。

 どうも「上座部」の立場はよくわからないもので、「有」とはいわないが「無い」ともいわない、というから「中観」のような考え方かというと「哲学」は良くないなどといいます。
 要するに、もっと「実践」的であるべきだ、と言いたいのかも知れません。
 確かに『般若心経』には、「実践」の方法は書かれていませんが、「実践」のヒントだったら、見いだすことができます。

 それに『般若心経』は、字数が非常に少ないし、「観自在菩薩」とか「大乗仏教」的ではありますが、それ以外は、あまり宗派的な内容が含まれていませんから、『般若心経』を「実践」にどう使うかは、それぞれの「宗派」で考えるべきです。

 「南華密教」で言えば、「経典」のなかに『般若心経』も含まれており、その使い方は「呪文的」であり、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是」という、『般若心経』のなかで最も重要な部分だけを暗記し、普段から唱えるようにしますが、意味をよく考えて唱えないと、何の足しにもなりません。
 『般若心経』を読む目的は、もっぱら「欲望」の抑制にあり、「あらゆる現象は関係でしかない」ことを知れば、

 「どんなに素晴らしいものを手に入れたとしても、自分にとっても有用なものとは限らない」
 「手に入れるために払う犠牲のほうが大きいのではないか」
 「今もっているもの以上に得る必要があるか」
 「本当に人生をかけても手に入れるべきものか」
 「自分のものになっても今の輝きを保てるのだろうか」
 「必要ではなく執着による欲望ではないのか」
 「決して手に入らないものを欲しがっているのではないのか」
 「手に入れてもかえって苦しみが増えるだけではないのか」

 などの疑問が「内なる他者」から湧き起こり、
欲望の対象となるものは、「生きてゆくのにぜひ必要なもの」「妄想ではなく実際に手に入るもの」「その対象にとっても自分が持つことが良いといえるもの」などに限られるようになります。
 すると「空を知る」だけでなく、「空を悟る」ことができた人は、「欲しいものは何でも手に入る」ようになります。

 もう一度整理しますと、「五蘊」とは「苦」の根源的な原因、「十二処」「十八界」は「五蘊」を詳細に分類したもので、やはり「苦」の原因、「十二縁起」は「五蘊」を展開したもので「因果」による「苦」の原因、「四聖諦」のうち「苦」は「八苦」で、「集」は「苦」の原因、「滅」は「苦を避ける法」、「道」は「苦を克服する法」、ということができます。
 ところが、「空を悟った人」は、もう「苦」の原因がなくなり、「苦」を解消していますから、「五蘊」も「十二処」も「十八界」も「十二縁起」も「四聖諦」も、「苦の原因」としては、もう存在しません。
 しかし、『般若心経』は、さらに「智慧」も「悟り」も「無い」と言っています。
 これは、「彼岸に渡ったら筏を捨てよ」という仏陀の思想に依拠したものと考えることができます。
 つまり、「仏教」の目的は「悟り」であり、「悟り」のために「教理」があり、「教理」のために「仏教」があるわけではありません。
 「悟り」を得て「彼岸」に渡った人は、「筏を捨てろ」と言われますが、次の人のために、「彼岸」への筋道を示さなければなりません。
 
 「無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得」というなかには、わずかな字数のなかに「苦」の原因と克服法が洩れなく含まれており、「捨てろ」と言いながら、「必修」の「教学」であることも示しています。要は、学問にも「執着」しないことが肝心です。
 「南華密教」では、このことを「経典研究者」の陥り易い「分別」と「執着」として、「玄奘三蔵」をモデルに『西遊記』という「怪奇小説」のなかに密かに滑り込ませております。
 『西遊記』のなかでも「功法修行者」である「孫悟空」は、「空を悟って」いますから、「無分別」で「執着」がありません。
 「猪八戒」は別名「猪悟能」といい、「八戒」というとおり、「戒律遵守者」ですから、なかなか「悟り」に達せず、いつも欲が絡んだ失敗ばかりします。
 「沙悟浄」は「清浄を悟って」いますから、力はないものの、思いやりややさしさがあり、人々と直接接して「仏教」を広める「寺院経営者」と言う役割を負っています。
 「経典研究者」「功法修行者」「戒律遵守者」「寺院経営者」らは、それぞれの立場で「仏教」を究めようとします。
 「経典研究者」や「寺院経営者」は、布教には大いに役立つものの、自らが「悟る」のはなかなか難しいものです。
 「功法修行者」は、自分が「悟る」には効率がよいものの、布教にはあまり向かず、弟子をとって功法を教えるのが精一杯です。ただ現代日本のように、ヨガや瞑想にいくらでも人が集まる社会では、案外効率が良い方法です。
 「戒律遵守者」は、自分が「悟る」のも難しい上に、人に「戒律」を守らせて布教するというのは、相当に無理のある話です。それでも「戒律」さえ守っていれば「苦」の原因からは逃れることができます。
 
<次回に続く>『般若心経は間違い?』の間違い(十二) 悟りのイメージと効用


http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2007/10/post_a588.html
より転載させていただきました。

南華さま

素晴らしい力作を二つもありがとうございます。
つい、ガツガツと貪るように、全体を流し読み状態で読んでしまいました。
もう何度かゆっくりとじっくりと読まなければなりません。とりあえず、御礼申しあげます。

スマ長老さまへの批判は、それはそれとして、とくに興味深いのは、南華密教の立場を明らかにされているところです。
ここに南華さまの真摯な姿勢と深い知識とが顕れているように思われ、個人的には非常に興味があります。
まだまだよく読まなければなりませんが、長老さまの疑問である、「空即是色」の解釈は何か?や、あと、呪文の意義への疑問などに、答えようとされているところは、多くの読者のみなさまも知りたいところであり、それに答えるものと思います。

「腑に落ちる」というところまで詰めないと、「わかった」とは言えないのが仏教です。そのために智慧を出しあわねばならないと思っています。なので、たいへんありがたく拝読しています。

それにしても『般若心経』はむずかしいですね。
たくさんの本が出ていますが、「完全に」『般若心経』を解釈できる人は、今のところ、この世界にいないようだというのが、わたしの得た唯一「確かな」感触です。

投稿 管理人エム | 2007/10/13 10:51

マダム・エムさま

 「般若心経」(十)、(十一)をTBさせていただきました。

 また、ご意見などお寄せくださいませ。

投稿 南華 | 2007/10/13 06:31
| 南華 | 2007/10/13 3:45 PM |

マダム・エムさま

 早速読んでいただきましてありがとうございます。

>たくさんの本が出ていますが、「完全に」『般若心経』を解釈できる人は、今のところ、この世界にいないようだというのが、わたしの得た唯一「確かな」感触です。

 『般若心経』には、大品、小品、に梵語、漢訳、のなかでも、玄奘訳はじめいくつものテキストがあり、それぞれの主旨は同じとは言えず、テキストごとに作者が違う、くらいに考えなければいけません。

 「玄奘本」のなかでも「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是」が、「南華密教」の「経典」としての『般若心経』であり、あとは付けたしのようなものです。

 ところで、インド語の語順は、中国語や日本語とは違うというお話ですが、ならば、梵語の「色即是空」は、「空なるものはすなわち色であるものである」ということになっているのでしょうか。教えてください。

投稿 南華 | 2007/10/14 15:34
| 南華 | 2007/10/14 6:58 PM |

南華さま

また、もう少しブログを拝読しようとしてますが、今日は用事が多くて、中断しているところです。ゆっくり行きます。

> ところで、インド語の語順は、中国語や日本語とは違うというお話ですが、ならば、梵語の「色即是空」は、「空なるものはすなわち色であるものである」ということになっているのでしょうか。

『般若心経』は、ほんとに悩み多き作品で、サンスクリット語にしますと、漢訳では気づかれなかった問題が、じつはあるのです。
多くの学者を悩ませてきたものです。

語順にかんしては、漢訳の語順と同じになっており問題はないのです。

ルーパム エーヴァ シューニャター シューニャターイヴァ ルーパム、…

と読むことができます。

ルーパム エーヴァ シューニャターは、玄奘訳の「色即是空」に相当すると考えられますが、問題なのは、シューニャターとあることです。これは「空性」なのであって、「空である」という形容詞ではなく、女性名詞なのです。
「色は、すなわち、空性である」というのがサンスクリット語の正しい訳ということになります。これは、文として、ふつうではありません。

この解釈をめぐって、今西順吉先生が「空と空性」という論文を書いておられますが、その中で、ネパール系写本には「ルーパム シューニャム」(色は空である)という表現もみられると書いてあります。文法上理解しやすいのはこちらです。
しかし、他の般若経典の検討などから、結論としてやはり「ルーパム シューニャター」という表現が正しいと結論づけております。

この、何とも言えないもやもやしたむずかしさは、「ルーパム エーヴァ シューニャター」の最初の一文に、すでにじゅうぶん込められているような気がします。

ブッダ的には、「色」を主語にもってくることは、何も問題はありません。でも、なぜ、「色は、すなわち、空性である」となるのでしょう?

「空性」も主語に来ることは、ありえないことではないと思われます。ブッダの説く言葉です。
「空性は、すなわち、色である」というこちらの文の方が、むしろ解釈しやすいとも言えます。

いろいろな学者が検討を加えていると思いますが、まだしっかり調べていないので、よくわかりません。
今西先生も、これはたんに文法上の問題ではなく哲学上の問題もふくめて検討すべきであるとして、それ以上の内容は述べておりません。

スマナサーラ長老さまは、これまでの解釈をそのまま使って、それによって批判を加えています。
長老さま自身は、この解釈それ自体に問題があると見ているかどうかわかりませんが、わたしの感触では、そのような事はとうぜんご存じだろうと思います。
その上で、批判されていると思います。

ですから、部派の立場を守ってその枠で批判を加えておられます。
が、それによって、大乗仏教の方でまともに検討を始めたら、いろんな解釈上の問題がブワッと吹き出すとわかっておられるのだろうと思います。
わたしが思いますには、きちんとした大乗仏教の立場での解釈を出してください、という長老さまのメッセージを受けとるべきなのではないでしょうか。そのような意味でおっしゃったと思います。

その意味で、とにかく、きちんと批判に答えようとされているのが、今のところ南華さましかいないのは、さびしいかぎりです。しかし、それだけに、南華さまのご意見は大きな意義をもち貴重なものと思っております。

わたしも、気にはなりますが、これを検討しようとすると、膨大な般若経典をあれこれ探らねばならず、ちょっとため息をついているところです。

ぜひとも、がんばってください。

投稿 管理人エム | 2007/10/14 17:48
| | 2007/10/14 7:02 PM |

マダム・エムさま

 お忙しいのに、早速のお答えありがとうございます。

 「色不異空、空不異色」についても、梵語ではどんな表現だったのか、よろしければお教えください。
 中村元さんの訳も今一ピンと来ないので。
 
 梵語と漢訳の違いという問題は、私どもでも、以前から、“『般若心経』−漢訳とサンスクリットの違い”という記事などで指摘してきたのものです。非常にレベルが違うのです。

 「照見」の二文字だけで、「観音」の立場をガラリと変えてしまった、玄奘らによるマジックが施されて現在の『般若心経』があると考えていますが、逆に、先に梵語の『般若心経』があったかどうかすら、定かではないようです。
  
>これを検討しようとすると、膨大な般若経典をあれこれ探らねばならず

 幸い、南華密教では、『般若心経』に関しては、玄奘訳の、しかも前半しか採用しないので、あまり厄介な研究には与しないのです。
 その代わり、当時当地の最新最高の知識を組み合わせて、実践的に考えてゆく、というのが、南華密教の立場です。つまり、それが「密乗」というものです。
 
投稿 南華 | 2007/10/14 22:57
| | 2007/10/15 8:57 PM |

南華さま

>「色不異空、空不異色」についても、梵語ではどんな表現だったのか、よろしければお教えください。

こんにちは。では、では、「色即是空空即是色」の続きから行きます。

ルーパン ナ プリタック シューニャター
(色不異空)
シューニャターヤー ナ プリタッグ ルーパム
(空不異色)

語尾が少々変わっていたりするのは、後の音の影響を受けるためです。また、格変化をすることにもよります。「ナ」が、否定です。「プリタック」は「異なる」「別異の」という意味です。
 
>梵語と漢訳の違いという問題は、私どもでも、以前から、“『般若心経』−漢訳とサンスクリットの違い”という記事などで指摘してきたのものです。非常にレベルが違うのです。

やはり、そうなのですか。

>「照見」の二文字だけで、「観音」の立場をガラリと変えてしまった、玄奘らによるマジックが施されて現在の『般若心経』があると考えていますが、逆に、先に梵語の『般若心経』があったかどうかすら、定かではないようです。

なるほど、そうなのですか!そうなると、もう、何を信じてよいかわかりませんね。ここを明らかにするのは、至難のワザですね。。ふーっ。
 
> 幸い、南華密教では、『般若心経』に関しては、玄奘訳の、しかも前半しか採用しないので、あまり厄介な研究には与しないのです。

賢明な道ですね。現実を重視される方向で、検討されているのですね。なるほど、わかってきましたよ。

こういうたいへんなところを地道に研究するのは、本来、学者の仕事なんでしょうね。

投稿 管理人エム | 2007/10/15 16:29
 | 2007/10/15 9:00 PM |  




 2007.10.15 Monday
『般若心経は間違い?』の間違い (十二)
 
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)より

 実践的に「空」を捉える場合、自分と言えば五蘊ですから、執着はこの自分に対して生まれるのです。それに対しては徹底的に空っぽであること、空であること、実体がないことを観察しなければならない。それができたところで無執着の心が生まれて、解脱に達するのです。悟るのです。
 執着を捨てることは、けっして楽ではありません。・・お母さんは「これは息子が初めての給料で買ってくれたお土産だよ」となんの役にも立たないガラクタを大事に持っていたりする。自分の子供がはじめて切った爪だとかも保存しておく。・・なんの価値もない、なんの意味もないものに感情を入れて、「価値あるもの」に仕立ててしまっているのです。
 執着を捨てるには価値を破らなければいけないのですが、そもそも価値など最初から成りたたないのです。きちんと観察すれば、物事に価値が成り立たないことがわかります。「無価値」という事実が観えるのです。(P.129〜132)


 ならば「仏舎利」などは、真っ先に捨てるべきもの、ということになりそうです。スリランカから授与された「真性仏舎利」を信じて、宗教団体に全財産を寄進してしまった人にも「喜捨」だから、何でも喜んで捨てなくてはいけない、というのでしょうか。

 お母さんが、息子が初めての給料で買ってくれたお土産を、後生大事にとっておくのが「執着」でしょうか。
 確かに、初めて切った爪をとっておくなどというのは、どうかと思います。
 この両者の違いを考えてみると「初めてのお土産」は、子供が親から独立してゆくことを喜ぶ、という意義があるのに対し、「初めての爪切」は、子供をいつまでも子供のままにしておきたい、というニュアンスを感じます。
 母親の子供に対する感情を「執着」というのは、子供だって独立した一個の人間で、親のペットではないよ、といった意味からであって、「初めてのお土産」という「独立のシンボル」まで「捨てろ」という必要があるのでしょうか。そうした記念品を眺めて、子供が自立して、離れて行く寂しさを紛らわせている親だって多いと思うのですが。

 「価値」について言うなら、まず定義が必要であり、古典経済学でいう「価値」は「使用価値」と「交換価値」であり、「労働価値」という考え方が補完的にあります。近代経済学では、「使用価値」と「交換価値」に加えて「効用」という考え方を取っており、ブランド品のように「使用価値」は同じなのに、「交換価値」ばかりが異常に高いものにも、「心理満足効果」という「効用」がある、というような考え方をします。
 すると、お母さんの思い出の品は、「使用価値」も「交換価値」も全くないけれど、「効用」ならあるかもしれません。つまり、そのような性質の商品を企画すれば、「効用」によって「交換価値」が生まれる可能性があります。

 「労働価値」というのは、資本主義以前の社会では、「労働」に対する対価が商品の価格である、考えられており、「労働」にこそ「価値」がある、と考えられてきました。

 「労働」とは、自然に対して、何らかの働きかけを行い、人間にとって有用なもの、つまり「価値」を得ることですが、社会の生産力が大きくなるにつれ、働きかける相手は、農場や工場などのように人間化された自然であり、生みだすものは、もっぱら「商品」ということになります。
 ところが、「価値はつくられた商品に附着する表象であって、労働や労働者に附着するものではない」「労働する人間はこちらがわにあるのに、価値はいつもあちらがわに、いいかえればつくられた商品に附着しており、これを相互に(つまり自然と人間に)架橋するものが労働であるというにほかならない。」(吉本隆明著『カール・マルクス』より)
 これが「疎外された労働」の概念であり、マルクスは、「疎外」からの解放は、労働者の解放という政治的なかたちであらわされるほかはないと考えました。
(“十二縁起ー空と疎外−「悟り」へ”より)

 長老は、「役に立つ」ことは大いに奨励していますから、「使用価値」については否定していないはずですが、「交換価値」については、否定したところで、対価を払わなければ、「役に立つ」ものも手に入りません。
 「効用」について言えば、これこそ「価値」のなかでも一番「実体」のないものですから、恐らく「評価」しないでしょう。お母さんの思い出の品も「捨てろ」というくらいですから。もちろん「ブランド品」などに「執着」してはいけない、というのは、仏教者としては当然です。

 「労働価値」について言えば、自分は「労働」しないで、「労働」する人たちからの「喜捨」で、食べさせていただいている、「出家修行者」が、「労働」に「価値」がないなどと、言えるのでしょうか。
 「喜捨」には「価値」があるか、と考えると、「喜捨」する人の「心理満足効果」がありますから、ブランド品などと同じ「効用」が認められます。しかし、長老は「価値」がない、と言います。

 「仏舎利」や「仏陀の真理」も、一種のブランド品であり、「使用価値」も「交換価値」も「労働価値」もなく、ただ「効用」だけが認められます。
 しかし、それでも、買う人と売る人があれば、売買は成立しますから、「効用」は「交換価値」を創出します。
 それでも、長老は、「価値」がない、と言います。

 長老は、「価値」は「執着」だから認めない、と言いますが、自分たちは、「価値」のなかでも、最もあやふやな「効用」のおかげで、どうにか認められているのに、「あなたがたが大事にしているものには『価値』がありません」と言うのです。

 いや、そうではない、そのような経済学的な「価値」について認めない、と言っているのではなく、「倫理」的な「価値」について言っているのだ、というなら、また別の話です。
 しかし、「思い出の品」は「倫理」的に見て「価値」がない、つまり反「倫理」的なのでしょうか。

 「価値」にこだわるなら、それは確かに「執着」というべきでしょうが、「無価値」にこだわるのも、やはり「執着」であり、「仏教者」は、「価値」、「無価値」という「分別」に、あまりこだわるべきではないと思うのですが。


 最終的に何ひとつ価値のあるものはないとわかったところで、最終的な解脱に達します。(P.133)


 どうして、「価値のあるものは何ひとつない」と分かったら、「解脱」に達するのでしょう。「空」を悟ったから、「空」すなわち「苦」の世界から「解脱」するのではないでしょうか。
 何度も出てくる「一切は空」というのは、「中観」の「哲学」として批判していたと思うのですが、それはおきます。
 「価値」が「有る」とか「無い」とかいうのも、相対論であり、「有価値」のものがあるから、対立的かつ相互的に、つまりは「縁起」に依って、「無価値」なものがあるはずなのに、「すべては無価値」ということは成り立つのでしょうか。

 「解脱」してしまえば、すべては「無価値」という意味では、「仏陀の真理」「法」「僧」「智慧」「悟り」、すべて「無価値」として捨てることができる、というのは、よく分かります。
 「解脱」してしまった人が、いつまでも、「仏陀の真理」は素晴らしい、「悟り」は素晴らしい、「智慧」は素晴らしい、などと語り続けるとしたら、「苦」も素晴らしい、ということになります。
 それでは、「解脱」しても「執着」は消えない、「苦」もそのまま、ということになってしまいます。

 「解脱」したら、すべては「無価値」というのは、『般若心経』の「無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得」と、同じことを言っているとしか思えないのですが、どう考えるのでしょうか。 

 「空」の世界とは、すべてが相対的な世界であり、「有」なのか、「無」なのか、言い切ることができません。「価値」も「有る」のか「無い」のか、誰にも分かりません。

 「生滅」だって、「生」があるから「滅」があり、「滅」があるから「生」があるのですが、ならば「生」や「滅」という「現象」が「実在」するのか、といったら、「生滅」だって、「有る」とも「無い」とも言えません。

 「空」の世界は、すべてが相対的だから「苦」が生まれます。
 なぜなら「楽」も相対的であり、「苦」がなければ「楽」がなく、「楽」がなければ「苦」もありません。
 すると、「空」の世界の中では、誰もが「苦」の解消のために「楽」を求める、ということになります。ところが「楽」を求めるためには「苦」が必要であり、「楽」のためには、進んで「苦」になるような行動を取る人が出てきます。
 たとえば、食事を美味しくするために、わざと空腹にしておく、とか、晩酌のビールを美味しくするために、午後は水分を取らない、とか、やせるために食事を取らない、など、時には危険を冒してまで、「楽」を求めます。
 さらに、過食、拒食、酒、煙草、麻薬、覚醒剤、SMプレイ、バンジージャンプ、ジェットコースター、セルフカット(自傷)、など、事の大小はありますが、いったい「苦」を求めているのか「楽」を求めているのか、自分でも分からないような行動を取るものです。

 「価値」というのは、手に入れば「楽」ですし、入らなければ「苦」になります。
 ところが、いったん手に入れてしまうと、保持することが「楽」で、失うことが「苦」になりますが、保持しなければならない、という「苦」も生まれます。
 「価値」の最たるものは「貨幣」つまり「お金」ですが、「お金」には、「交換価値」だけがあって、「使用価値」はありません。すると、使わなければ「楽」が得られないのが「お金」なのですが、使うと、減るのが「苦」になります。逆に、一気に使ってしまうことで、ストレスを発散させる、つまり「楽」を求める人もいますが、やはり後で「苦」になります。
 「お金」を持っていない人は、何も買えないし、生きてゆくのに支障があり、非常に「苦」になりますが、「お金」を持っている人は、失うことが「苦」であり、もともと持っていない人よりも大きな「苦」と感じます。また、時には「守銭奴」、逆に「浪費家」などと言われて「苦」になったりします。
 結局「お金」とは、あってもなくても、「苦」の原因になることは間違いありません。
 
 このように、「空」の世界では、「価値」も「空」ですから、「価値」とは、「有る」ものか「無い」ものか、誰にも分かりません。 
 「空」の世界から「解脱」すると、「価値」は「有る」のでしょうか、それとも「無い」のでしょうか。
 しかし、ほとんどの人類は、「空」の世界にいるのに、「価値」は「有る」と信じており、その「価値」は相対的だ、とは知っていても、「悟り」ではありませんから「知っている通りに行動する」ことはできません。
 すると、「解脱」した人が、「価値」は「有る」、と言っても、今と同じではないか、と思うだけです。
 すると、「解脱」した人は、後に続く人のためにも、「価値」は「無い」と言わざるを得ないことになります。
 すると、「解脱」するために、すべては「無価値」である、と言うことは、「顛倒」ということになりますが、そのほうが、早く「解脱」できる、というのであれば、それはそれで良いのかも知れません。
 ただ、長老や、長老の指導で修行する人が、そこまで承知していなかったなら、長老の『般若心経』や「空論」に対する批判は、天に唾することになります。
 逆に、承知してやっているなら、長老の批判は、「ためにする批判」ということになってしまいます。

 空論を語る人は「na 無」という言葉を使いません。それは「無」と「空」がまるで違うからです。・・たとえば「私に角がない」と言う場合は「無」です。無いのだから論ずる必要はまったくない。・・
 蜃気楼を見て「あれは無だよ」と言ったところで、蜃気楼はあるように見えるのですから無じゃないでしょう。私に苦しみが「無い」と言ったって、実際には現象として苦しみがあるのだから無ではないのです。空と無はまったく違うもので、無を使った時点で空論は成り立たないのです。
(P.137~138)


 同じ一冊の本のなかで、こんなに反対のことを言うのもどんなものでしょう。  
 ブランド品を見て、「あれは無価値だよ」と言ったところで、「価格」という「価値」は有るように見えるのだから「無価値」じゃないでしょう。ブランド品は「無価値」だと言ったって、実際には「価値」という現象があるのだから、「無価値」ではないのです。

 「無」も「有」もないのが「空」の世界であり、「解脱」した先には「無」の世界が待っているのでしょうか。 


 解脱に達した人は一切は空であるとわかっていますが、世の中は空であると知りながら、涅槃に入るまでは生活するのです。べつに悟っても死ぬまで修行しなくちゃいけないという意味ではありません。修行は終わったのです。自分で発見した真理でまた生きている。そのような感じです。それが初期仏教で語っている空の教えです。(P.133)

  
 このへんは、日本の「大乗仏教」には見られない、「部派仏教」の素晴らしさです。つまり、「解脱」とか「悟り」とはどのような状態を言うのか、日本の「仏教」が、全くイメージを提示できないでいる問題です。
 
 私たちの学んだ「南華密教」や「雲門禅」なら、「悟り」のイメージは明確であり、その点では、スマナサーラ長老のお話はよく分かるのです。

 ただ、中国の宗教弾圧のなかで、在家居士らが法灯を守ってきた、「南華密教」では「出家」は必要とは考えておらず、「悟り」を開いても、市井の一市民として暮らすなかで、「智慧」や「知恵」を生かしてゆくというスタンスを取っています。
 一市民としての生活ですから、「価値」に「執着」しないだけで充分であり、「出家者」のように、すべて「無価値」だと考える必要はありません。
 
 その反面、布教のためには、「出家」や寺院経営も必要であり、「チベット密教」のノウハウに加え、「中国禅」や「儒教」「道家」「道教」などの知識を重層的に組み合わせている「南華密教」には、寺院の経営法から、政権奪取の方法まで、多くの実践的な知識が集積されています。
 「密教」の「密」とは、秘密の「密」ではなく、むしろ「緊密」の「密」であり、「密乗」とは、「密教」の知識だけではなく、あらゆる「情報」「知識」「知恵」をつなぎ合わせて、どんな時でも「最も良い方法」を知り、かつ「知っている通りに行動する」ことができる、最上の「悟り」を得るものです。
 「最も良い方法」を知っていても、「知っている通りに行動する」ことができなければ、何もなりませんし、「最も良い方法」ではないのに、「知っている通りに行動」したら、「悟り」も役に立ちません。




『般若心経は間違い?』の間違い (十三)
 
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)

 困ったことに『般若心経』は、仏教用語を使いながら仏教用語の意味をわかっていないのです。それは「色即是空。空即是色」のくだりからも明らかです。
 「色即是空」は正しいのです。「色は空であると観なさい」とパーリ経典にもあります。
 では、「空即是色」ってなんでしょうか?これはどうしても、大乗仏教の世界からみたって成り立たない話です。
 大乗仏教で一般的に言われている「空」とは、真理そのものであって、超越した何かの存在なのです。大日如来とか久遠佛とか、法身如来とか、宇宙全体の実体たる真理で、そこからすべてが流出してくる。ヒンドゥー教のアートマン、ブラフマンという観念と大乗仏教の「空」の観念はかなり似通った、区別できないものになっています。
 しかしそれは、大乗仏教のカリスマ・龍樹が発見した「空」ではないのです。
 龍樹はただ、「物事は相対的であって実体は成り立たない」と論理的に緻密な哲学を構築しただけで、「空たる真理が存在する」とはけっして言わなかったのです。
 しかし大乗仏教が発展していくうえで、空は真理・実体そのものになっていきました。
 けれど龍樹の「空」は言うまでもなく、そういう実体化された「空」の立場からみたとしても、『般若心経』に書いてあることは間違っています。

 「リンゴは果物である」というのは正しいのですが、「したがって果物はリンゴである」というのはおかしいのです。そういうふうに言葉を使ってはいけないのですが、『般若心経』の作者はそれも理解していないのです。
 それだけではありません。「色即是空」と言ったのは正しいのに、自分でそれを理解していない。「色受想行識は空である」と言ったのは正しいのに、やはり理解していない。理解していないから、「空と色は同じもので全然変わりはない」などと言うのです。しかも何度もいうのです。これはすごく滑稽です。間違ったことを何度も発表できるのは、わかっていないからなのです。
(P.136〜137)
 
 
 「色即是空」は「色=空」という意味であって、「色は空であると観なさい」という意味ではありません。あるいは、サンスクリット語の『般若心経』ではそう読めるのかも知れませんが、「漢訳」の、特に「玄奘訳」の『般若心経』に関する限り、「色即是空」は「色=空」という意味です。

 「色即是空」なら「空即是色」は必然であり、わざわざ反復する必要はないのですが、スマナサーラ長老のように、間違って解釈することがないように、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」と繰り返しているのです。
 この繰り返しには「揃え癖」という意味もあります。中国人は文章を書くときに、行と文字数を揃えて書くことに、非常に美意識を感じるらしく、特に「漢詩」には、「七言絶句」、「五言絶句」のように、同じ文字数の四行でまとめる詩の形式があります。
 
 長老の言い分は、「色即是空」は正しいが、「空即是色」は間違っている、というものです。
 また、それを喩えて、「リンゴは果物である」は正しいが、「果物はリンゴである」というのはおかしい、と言います。
 この喩えは、明らかに間違った使い方であり、そういうふうに喩えを使ってはいけないのですが、長老はそれも理解していないのです。

 「色即是空」は、「中国語」で「色=空」という意味であり、「色は空のなかに含まれる」という意味ではありません。
 「リンゴは果物である」というのは、“Apple is a Fruit” つまり、「リンゴは果物の一種である」という意味であり、「リンゴ=果物」という意味ではありません。
 もし、“Apple is the Fruit” だったとしても、「リンゴは果物のなかの果物である」となるだけで、「リンゴ=果物」という意味にはなりません。
 英語もそのへんは厳密にできており、日本語のように、そのままひっくり返すことができません。つまり、「A Fruit is ○○」という表現が最初からできません。

 長老が、『般若心経』が「間違い」というのは、何に対して「間違い」と言っているのか、長老自身が、よく理解できていません。

 「色即是空」は正しいと言いますが、「色即是空」は「色=空」という意味であり、「色=空」なら「空=色」であるのは当然であり、間違いようがありません。
 「上座部仏教」の世界では、「A=B」であっても「B=A」ではない、というのでしたら、世界的にみても稀有な論理学ですから、それだけで何冊もの本が書ける筈で、『般若心経』をダシにすることもないでしょう。

 「色=空」ではないから「間違い」というなら、よく分かる話ですが、それは、自分の主義や主張と異なるから「間違い」と言っているだけで、それなら、世界中の「上座部」以外の仏教書は、どれもこれも「間違い」であり、とりたてて『般若心経』だけが「間違い」という話ではありません。
 
 仏典に見る、お釈迦さまの説法は「喩え話」が多いので、仏教者の説法も、自然と喩えが多くなります。 

 『法句経』「第一章」にある、「他人の牛を数える」という喩え、
多義を誦習すと雖も、放逸にして正に従わずんば、牧の他牛を数うる如し、沙門の果を獲難し」 
 これを意訳すると、次のようになるのだそうです。 おそらく、漢訳からではなく、パーリ語からの訳ではないかと思います。
 「たとえためになることを数多く語るにしても、それを 実行しないならば、その人は怠っているのである。−牛飼いが他人の牛を数えているように。彼は修行者の部類に入らない」(岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より )
 「たとえ多くの教えを語っても、その実行者でなく、放逸な人であれば、牧童が他の人々(雇い主)の牛々を数えつつあるようなものであり、沙門の分け前(解脱)に与れない」(ダンマパダ(法句経)講義DVDカタログ(1)、講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

 「他人の牛」の意味が、多くの解説では「牧童が他人から預かった牛」とされているのですが、「他人から預かった」というのは、どこから来ているのでしょうか。長老の講義でも「他の人々(雇い主)の牛々」となっているようです。

 「他人から預かった牛」なら、頭数を数えるのが当たり前であり、数えなかったら、牛を10頭預かっても、9頭返せば良いことになってしまいます。
 銀行のように「他人の金を預かる」商売では、さらに深刻な問題になり、銀行が預金を数えなかったら、金融不安で誰も安心して暮らせません。
 この場合、銀行員は「雇われ人」であり、自分が預かった金でもないのに、銀行の立場で、預かった金を数えなくてはなりません。
 雇われている牧童という立場なら、雇い主の牛は、自分の牛と全く同じであり、「預かった牛」と同様に責任を持ち、常に頭数を数えて確認するのが当然です。
 もし、自分の牛でないからと、頭数も数えないで、ほったらかしにしておくなら、牛主の損失は大きく、牧童はクビになるか、牛主が潰れてしまいます。
 
 この「喩え」の意味は、「せっかく多くの教理を学んでも、戒律を実行せずに、やりたい放題にしていたら、修行の成果を得ることができない」ということの筈です。
 すると、「他の牛を数える」というのが、「無駄に教理を学ぶ」ことに対応しているのですから、「他の牛を数える」こと自体が、無意味なことでなくてはいけません。
 すると、「他の牛」というのは、「他人から預かった」り、「雇い主の牛」のような、当然、自分が責任を持つべき牛ではなく、自分と関係のない、他の牛飼いの牛か、他の牛飼いが預かった牛、でなくてはおかしなことになってしまいます。
 つまり、牧童が、自分の責任を負っている牛を数えずに、自分と関係ない「他人の牛」の数をかぞえている、と考えないと、意味が通りません。
  つまり、この喩えの意味は、
 「せっかく仏教の教理を学んでも、学んだとおりに実行せず、やりたい放題にしていたら、牧童が自分の管理する牛を数えずに、自分と関係のない他人の牛を数えて、多いの少ないのと言っているのと同じようなもので、とうてい修行の成果を得られません」
 と、なるべきです。

 牧童が自分の管理する牛を数えるのは、仏教の修行者が、教理を学んでそのとおりに実行するのと全く同じことであり、それが悪いなどと誰が言うのでしょうか。
 牧童が、他人の牛を数えて悪いのは、自分の管理する牛を数えないで、自分に関係ない他人の牛を数えて、うちの牛より多いとか少ないとか、無駄なことをやっていると、自分の牛の管理がおろそかになるからであり、これが、修行者が教理を学んでも実行しない場合と同じだ、といっている筈です。
 もし「他人の牛」を預かっても、自分のものではないから、数える必要がない、というなら、そんな「不道徳」な話はありません。

 このように考えると、この「他人の牛を数える」という「喩え」は、「間違っている」というべきですが、それは、お釈迦様が間違えたのでしょうか、それとも長老や、多くの解説者が間違えたのでしょうか。
 漢訳から見るかぎり、「他人から預かった牛」とか「雇い主の牛」というニュアンスは全くありませんから、あるいは、パーリ語の原文が、そうなっているのかも知れません。
 その場合は、お釈迦様の「間違い」か、「法句経」を伝承した人の「間違い」ということになります。
 もし、何も「間違いはない」というなら、仏教は、銀行はじめ、あらゆる預託に関する職業を否定している、ということになりますし、借りたものに対する責任は負わない、ということになります。

 仏教に限らず、「修行」とは、他人の子弟を預かって「修行」させるものなのに、「他人の牛」だから「数えない」、などという話があるものでしょうか。
 それでは、どこかの国の「国技」のようになってしまいます。

 「他人の牛を数えるな」というなら、「自分の牛を数えろ」というのが「対」になるべきで、つまり、「他人のことより、まず自分のことをしっかりやりなさい」という意味になるはずです。
 スマナサーラ長老は、「大乗仏教」の立場から見ても『般若心経』は「間違い」である、などと言っていますが、それこそ「他人の牛を数える」ようなものです。
 「部派仏教」のなかでも「上座部」と「大衆部」ではまるで「教理」が違うし、「上座部」から出た「説一切有部」など、全く「上座部」とは異なる主張です。「大乗仏教」のなかでも『般若心経』の解釈や評価が異なる宗派があるのは、当然のはずです。
 日本の「大乗仏教」で『般若心経』を正しく、というか、筋の通った解釈をしている宗派は、ありませんが、それはまた別の問題です。 

 「空即是色は間違い」というのは、先に出版された『仏弟子の世間話』(玄侑宗久氏と共著・サンガ新書)という本のなかで、「リンゴは果物である」という喩えもそのままで、発表されたものです。当ブログでは、その「間違い」を指摘しましたが、今回の『般若心経は間違い?』でも同様の主張です。

 日本の「仏教」が「空即是色」を解釈できていない、というなら、それは正しいし、「間違い」のない主張ですが、「空即是色が間違っている」というのは、明らかに「顛倒」であり、かつ「間違い」ですし、「リンゴ」の「喩え」も、既述のとおり、明らかに間違った「喩え」です。
 それを理解していないから、何度も言うのです。これはすごく滑稽です。間違ったことを何度も発表できるのは、わかっていないからなのです。という話になってしまいます。  
 
 龍樹の「空」と、『般若心経』の「空」の違いについては、第十回で述べました。
 龍樹の「空」は、あくまでも「縁起」であり、「同時的相互関係と前後的因果関係」であることには間違いありません。
 ところが、「火は薪に依存してあるのではない。火は薪に依存しないであるのではない。薪は火に依存してあるのではない。薪は火に依存しないであるのではない」、というように、形式的な「相互関係」で終わっています。
 これが『般若心経』になると、「薪という概念は火と言う概念に依存してある。火という概念は薪という概念には依存しない」となり、非常にはっきりした「関係」として「認識」できることになります。
 これは、『般若心経』には、「関係」もまた「認識」である、という「唯識」的な考え方が入っているためで、そうでないと、「色即是空」、つまり「色=空」は成り立ちませんから、「空即是色」も成り立ちません。
 スマナサーラ長老の言うように、龍樹の「空」はもちろん、その他多くの「大乗仏教」の考える「空」では、「色即是空、空即是色」は、本当のところは理解できないはずです。

 サンスクリット語『般若心経』の「色即是空」は、「色は空性である」と訳せるそうですが、「玄奘訳」の『般若心経』では、完全に「色=空」と割り切っており、「法相宗」の大家としての、「玄奘三蔵」が、「唯識的」な解釈を持ち込んで、換骨奪胎した『般若心経』により、「空」の最高レベルを達成した、と観るのが「南華密教」の立場です。
 「色=空」とは、「現象=関係」という意味ですが、「色即是空、空即是色」は、「現象を認識することは関係を認識することであり、関係を認識することは現象を認識することである」と翻訳しないと、ほとんどの人は何を言っているか分かりません。
 
 龍樹の「空」について言うなら、「行きつつあるもの」がどうして「行かない」のか、理解できない人がまだ多いようです。
 「行きつつあるもの」というのは、単なる「名称」であり、あたかも「行く」という「意志」をもった「主体」であるかのごとく装っていますが、あくまでも「名称」ですから、実際に「行く」という「関係」つまり「現象」ではありません。

 もっと分かりやすく、図解すると、まず、白い紙の中央付近に、「行きつつあるもの(進行中)」と書いて、進行方向に矢印を書き加えます。

 

          ←←〔行きつつあるもの(進行中)



 こんな感じです。
 書いたら、そのまま、観測してください。
 すると、いつまで経っても「行かない」ことに気づかれるかと思います。
 つまり「行きつつあるもの」とは、紙に書かれた文字と同じく、「観念」のなかで「行く」ものですから、実際には、いくら観測しても、「行かない」のです。もし「行く」ように見えたら、観測者が勝手に動かしているのであり、「行きつつあるもの」が「主体」となって「行く」わけではありません。

 「行きつつあるもの」が「現象」として「認識」されるためには、「行きつつある」という「関係」がなければなりません。つまり、誰が、何時、何処から、何処まで、何のために、どんな方法で、行こうとしているのか、しかも、現在進行中でなければなりません。
 今現在、我々は何をしているか、と言えば、この文章を読んでいる、とか、PCに向かっている、などと仮定すると、「現在進行中」の「行きつつあるもの」を「認識」している可能性はほとんどありません。にも関わらず、どうして「行きつつあるもの」という「概念」を持つことができるのでしょうか。

 「概念」とは、上の図のような、観念上の紙に書かれた文字や記号であり、それを「実体視」してしまうのが人間の「認識」のありかたです。

 人間の持つ「概念」は、ほとんどすべてが「言語」に依存したものであり、どんな「現象」であれ、「名称」という観念上のラベルを貼り付けないと「認識」することができません。
 このような考え方は、ソシュールの言語論や、それに続く、「構造主義」的な「認識論」に近いものであり、そのようなスタンスで見ないと、『般若心経』の「空」、つまり「色=空」を理解することができません。

 それに対し、数多くある「『般若心経』解説書」に見る「空」の解釈は、「還元主義」的な「空」論にとどまっており、現代の物理学、とくに「素粒子論」などによって理解しようとするものです。
 すべての「存在や現象」は「素粒子」のはたらきに「還元」することができ、「素粒子」は「物質」といいながら、じつは「エネルギー」でもあり、「存在や現象」には「実体」がないことを証明したかに見えました。

 しかし「エネルギー」に「実体」が「有る」か「無い」かは、誰にも証明できませんから、相変わらずの水掛け論には違いがありません。つまり「一切皆空」のパラドクスから逃れられません。
 それより何より、肝心な「色即是空、空即是色」の説明には、全く役に立たず、スマナサーラ長老のように「空即是色は間違っている」という人が現れると、何の反論もできません。

 龍樹の「空」は、「火と薪」の喩えに見るように、「還元論」的なレベルにとどまっているのですが、「行くものは行かない」のほうは、「認識論」で考えないとうまく説明できませんし、本来なら、そのような発想が出てこない筈ですから、龍樹の「空」には、どこか「認識論」的な考え方を窺がうことができます。
 ところが、龍樹の説明は、「行くもの」には「行く働き」がないから「行かない」という「還元論」であり、「一切皆空」のパラドクスから逃れることができません。

 もし、龍樹が、「色即是空、空即是色」を知っていたら、あるいは、現代のような「認識論」を知っていたら、「行くものは行かない」ことの説明には何の問題もなく、今日の混乱は無かったことでしょう。  


<次回に続く>『般若心経は間違い?』の間違い(十四) 無我と輪廻
 
 
 
コメント
http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2007/10/post_a588.html
より転載

南華さま

『般若心経』(十三)を拝読しました。
いや〜、むずかしいですね。何とも言えないですねぇ。判断を保留するほかないところばかりです。

> 梵語のテキストもいろいろあるのでしょうか。

わたしも詳しく検討したことがないのでわかりませんが、いくつか校訂本が出ています。
また、漢訳も七〜八訳ありますね。

おっしゃるような「色性是空、空性是色」という訳ですと、単純にサンスクリット語で置きかえますと「色性」は「ルーパター」になるのかなと思いますが、訳した原文がどうだったのか、もはやわかりませんね。

うーん、拝読すればするほど、確信もって言えることがなくなってきそうです。テキストが揺れているのが、いちばん不安ですね。

玄奘訳で解釈する、というような南華さまの姿勢が、すっきりしているように思いました。
南華さまの解釈には、かなり西洋的な思考が見られるように思いますが、意識的なのかしらと思ったりしています。あれこれ、雑然とした感想で申しわけありません。

また、部派仏教の解釈も部派の立場を守っていますので、南華仏教ととくに対立しているわけでもないかしらとも思いました。

どのように読むかということですから、それぞれ解釈としては成り立ちうるのかなと思って拝読しました。

龍樹の「空」は、般若経典の「空」とは異なるという点についても、考えてみなくちゃと思っています。

まだ、わからないところばかりです。「ハァ!」とため息をつきました秋のたそがれでした。
宿題たくさん、抱えて帰ります。
力作で勉強させていただきます。どうもありがとうとございました。

投稿 管理人エム | 2007/10/20 15:24

マダム・エムさま
 
 ありがとうございます。

 ところで、思い出すところがあったので、資料を調べましたところ、「法月訳」というテキストでは、次のようになっております。

 舎利子、
 色性是空、空性是色、
 色不異空、空不異色、
 色即是空、空即是色、
 受想行識、亦復如是。 

これを梵文と対応させると、下記のようになるということです。

rupam sunyata, sunyataiva rupam
色性是空、空性是色、
rupan na prthak sunyata, sunyataya na prthag rupam
色不異空、空不異色、
yad rupam sa sunyata, ya sunyata tad rupam
色即是空、空即是色、
evem eva vedana-samjna-samskara-vijnanani.
受想行識、亦復如是。

梵語のテキストもいろいろあるのでしょうか。

いずれにしろ「色性」「空性」という言葉を排除したところに、玄奘らの意図を読み取れるのです。

投稿 南華 | 2007/10/19 22:34

南華さま

遅くなって申しわけありません。
精力的なご執筆で、こちらの方がすっかり出遅れしまいました。

これから、読ませていただきます。秋の夜長に読書と行きます!ゴーっ!

投稿 管理人エム | 2007/10/19 18:11

マダム・エムさま

 “『般若心経は間違い?』の間違い (十三)”を、公開しましたので、TBさせていただきます。

 こちらで教えていただいたことを、早速、使わせていただきました。御礼申し上げます。 
 
 龍樹と『般若心経』の関係についても考察してみましたので、ご批評ください。

投稿 南華 | 2007/10/17 10:21
 | 2007/10/20 11:46 PM |  

 


『般若心経は間違い?』の間違い (十四)
  

『般若心経は間違い?』(宝島社新書)

 修行を忘れて観念論に走る人々は、「一切衆生はもともとから仏性を持っている」とか、如来蔵であるとか、本覚であるとか、本来悟っているとか、哲学っぽいこと、知識っぽいことをいいたがるのです。言っているのは偉いお坊さんですが、「では、なぜあなたは出家しているのですか?」と聞きたくなります。・・・・・・・・・・・・・・・
 仏道は進化の道であって、人格完成の道であって、悟りに達する道なのです。空だけをハイライトして論じることで、それが壊れます。だから初期仏教では真理として「空である」とはっきり言うのですが、けっして「空論」は展開しないのです。
 パーリ経典には、中部経典の『大空性経』『小空性経』など、空の瞑想を説いた経典がいくつかあります。空を知るためには、哲学思想を組み立てるのではなく、瞑想を通して体験しなければいけないのです。結局、「空だ」と言っても誰にもそれがわかるわけがない。だから修行して空を発見するのです。体験するのです。発見するべきもの、体験するべきものについては、語れないはずです。
 だから、悟り・涅槃・解脱については語れない。語る単語すらないのです。
 無常については語れます。現象は無常ですから、私たちは日常生活で経験する無常を頭で理解できます。ただそれで真理を理解したことにはならないのです。なおさらに修行して、瞑想して、智慧を開発して、「一切は無常である」と発見しなくてはならないのです。
 無常を語ることができるならば、空も現象の説明だから、同じように語れるのではないかと思うかもしれません。しかし、「空について語る」ということはまったく成り立たないのです。言葉をいれたらもう「空 sunna」ではないのですから。空について概念を作ったら、もうとっくに空ではないのです。「空について語る」なんてことは、先ほど触れたように「空」をヒンドゥー教的な実体論の言換えにおとしめない限り不可能なのです。(P.141〜143)

 

 「如来蔵」や「仏胎」というのは、人間には本来、生まれつき「仏性」がある、心の中に仏様を宿している、という考え方ですが、だから修行しなくても良い、ということになるのでしょうか。


 「守護仏」または「如来蔵」という考え方は、どんな人でも、心のなかには仏の種(仏胎)が宿っており、仏の種を覆い隠しているカラを取り除いてやれば、誰でも仏と一体になれる、というものです。
 自分の守護仏を知り、信仰と意志によって仏と一体になるということは、つまり知っているとおりに行動できるということになりますから、「悟り」を開いて仏になることとまったく同じ意味になります。
 もちろん、「守護仏」と一体になるためには、修行が必要ですが、本来あるべき自分の姿にもどるだけで、そのモデルもはっきりしていますから、瞑想によって「悟り」を開くことと比べますと、はるかに楽な修行と言えます。
 なぜなら「悟り」は、ある瞬間に得られるもので、いくら瞑想を続けても、いったい、いつになったら悟れるのかわかりませんし、悟る前の人はいつまでたってもただの人で、半分は悟ったとかいうことはありません。お釈迦様だって、悟りを開くまでは、ただの悩み多き青年だったのですから。

 悟った人は、社会生活にも順応でき、自然と人々の尊敬や人気を得られ、出家をやめても困ることもありませんが、まだ悟れない人は、出家をやめたら社会生活が困難なことになりがちです。
 それに対し、自分の「守護仏」を知っていれば、守護仏と一体になれるまで待っていなくても、その仏様の性格や特長に従い、スタイルをまねて生活しているだけで、人々に魅力を感じさせ、対人関係がよくなり、仕事や学業がうまく行くようになります。
(“守護仏1-守護仏による救済  仏胎・如来蔵・紫薇斗数”より)


 つまり、人間に「仏性」があるからといって、修行しなくても良い、ということではなく、その人の個性に合わせた目標を持つことによって、「修行」の効率を上げることを目的とした面もあるのです。
 もともと、知っている通りに行動できない、つまり、悟っていないのは人間だけであり、人間以外の生物は、知っているとおりにしか行動できませんから、「もともと悟っている」のは間違いありません。
 長老は、「すべては無価値だ」と知るのが「悟り」だとも言っています。ならば、人間以外の生物は、もともと「価値」など知りませんから、やはり悟っていることになります。
 人間だって、生まれつき知っている通りに行動できないわけではなく、誰でも赤ん坊の時は、教わらなくても、乳を求めて泣き声をあげることができますが、「価値」などという「観念」は持っていません。
 人間に「苦」が生まれるのは、「疎外」によって「自己」を獲得するのと同時であることは、既述の通りで、その進化の過程は、赤ん坊が、かつては自分と一体だった母親を「他者」と「認識」する過程と全く同様と考えることができます。

 「一切衆生」というのは、草木なども含めた、あらゆる生物、という意味に使われていますが、「一切衆生は悟っている」と言う場合、人間だけは含まれない、ということは知るべきです。
 つまり、人間だけは、修行して「価値」などの余計な「観念」を取り除かないと、「悟り」を得られません。

 「仏胎」とか「如来蔵」という考え方は、人間が持ってしまった「自己」「他者」「価値」などの「観念」、つまり「心のよろい」を取り払い、本来持っていた「仏性」を取り戻そうという意義を持っています。

 また、当時から、「出家」しても「悟り」を得られる人は、むしろ少ないもので、「修行」をあきらめた人の社会復帰は、困難なものですから、「僧」の職業化は避けられないものでした。
 日本の仏教は、「葬式仏教」などと揶揄されますが、多くの「僧」は「出家」したのに「悟り」も得られず、もし「悟り」を得たとしても、「職業僧」としての社会生活を送らなければならないことには、変わりありませんから、やむを得ないところもあるのではないでしょうか。タイやスリランカでも似たような事情はあるはずです。
   
 長老は、「空をハイライトにしてはいけない」と言いますが、その反面、修行によって体験することで「空」を発見すれば、はじめて「空」が理解でき、「悟り」を得られるとも言います。
 「空」はそんなに難しいものでしょうか。
 いや、確かに難しいものだったかも知れませんが、『般若心経』は、「色=空」であることを「発見」し、当時はともかく、現代の「認識論」から見れば、非常に平易に「空」を解き明かしました。(まだ理解はされていないかも知れませんが)


 “言葉をいれたらもう「空 sunna」ではないのですから。空について概念を作ったら、もうとっくに空ではないのです。”(P.145)


 ならば、「空」という「名称」をつけること自体が間違っていることになります。
 いったん「空」という「名称」つまり「概念」を創ってしまったのに、今度は、それを忘れて、修行によって体験し、発見しなおしなさい、というのは、どう考えても、効率の良い方法ではない、ように思えます。
 効率など、どうでも良いと思うかも知れませんが、「出家」したのに「悟り」も得られず、かといって社会復帰もままならず、という、質の悪い「職業僧」がやたらに増えることが、「仏教」の堕落に繋がることも考えないといけません。
 
 既述のように、宗教弾圧のなかで、密かに法灯を守ってきた「南華密教」では、あまり「出家」には拘らず、「在家居士」として、社会生活をしながら「修行」し、「悟り」を得られる学習法や修行法を備えています。「悟り」を得られない人でも、その「情報・知識・知恵」の大系により、より良い社会生活が営める、という利点があります。

 日本の「大乗仏教」ではどうでしょう。新興の宗派を除けば、これといった宗教弾圧に遭うこともなく、むしろ権力から保護されてきましたが、「僧」と言えば「職業僧」ばかり、「出家」といえば「寺院経営者」で、しかもその多くは世襲ですから、ほとんど形式だけになっており、「悟り」を得るどころか、「悟り」のイメージを提示することすらできていません。
 ただ、「修行者」が「職業僧」として健全な社会生活を営める、という点では、そう悪いことでもないのですが、やたらと「戒名料」「布施」「永代供養料」などという名目で、金銭を巻き上げるだけでは飽き足らず、中には、風俗に通う、どころか、風俗営業にまで手を出す「僧」が現れる始末です。
 タイやスリランカでは、そんな堕落した「僧」は一人もいない、と、長老は言うかも知れませんが、どこにでも「破戒僧」はいるものです。
 
 

 大乗仏教で哲学としてあるのは空論と唯識論です。空論はべつに仏教にとってはごく当たり前の話でどうってことありません。
 唯識論は自己矛盾です。阿頼耶識は「認識できない識」なのに、それをどうやって説明できるというのでしょうか?・・・とにかく唯識論はすごい矛盾です。(P.145〜146)


 「空論はべつに仏教にとってはごく当たり前の話でどうってことありません」とは一体どういうことでしょうか。
 つい今しがた“初期仏教では真理として「空である」とはっきり言うのですが、けっして「空論」は展開しないのです”と言ったばかりではないのでしょうか。
 
 “阿頼耶識は「認識できない識」”と言いますが、本当でしょうか。
 我々の知っている「阿頼耶識」は、「意志」や「認識」や「知識」、つまり「業」を記録して貯える入れ物であり、「輪廻」のベースとなる「識」です。

 お釈迦さまは、「諸法無我」といいながら「輪廻」は否定しないという立場を取りました。

 もともと、「我」というのは、伝統的なインド思想の考え方であり、「輪廻」という「事実」の根拠になる思想でした。
 「我」を否定することは、「輪廻」をも否定することになるはずですが、仏教は「輪廻」を否定しませんでした。

 「有」論は、あらゆる事象を「法」に分類し、「我」だけは、どこにも分類することができないから、「我」が「無い」ことを証明しました。

 さらに「空」論は、あらゆる事象は「縁起」によって成立しており、「自性」つまり「我」がないことを証明しました。

 しかし、「有」論も、「空」論も、「我」なしで「輪廻」を説明することができず、「無我」といっても水掛け論にしかなりません。
 「輪廻」とは「業」の良し悪しによって、「六道」つまり「天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄」という六つの世界を行ったり来たりして、生まれ変わり死に変わる、という考え方です。
 「業」とは、その人の考えたこと、話したこと、やったこと、の記録であり、「三業」ともいいます。
 「業」によって「輪廻」するのですから、「業」を持った「輪廻」の主体がなければなりません。つまり、「我」抜きに「輪廻」を説明するのは、非常に困難なことになります。
 
 この問題を解決したのが「空」のあとに出てきた「唯識論」です。「唯識論」によれば、「輪廻」の主体になるものは「識」であり、「阿頼耶識」すなわち「蔵識」とも呼ばれるように、「業」を記録する「記録装置」と捉えられます。
 「記録装置」ですから、「識」そのものには「自性」はなく、「業」が記録されて、初めてその機能を発揮します。つまり、「阿頼耶識」も「縁起」によって成り立っていることは、言うまでもありません。

 「唯識論」について、長老のように、何か非常に特殊な考え方のように捉えている人がいるようですが、ただ「五蘊」の機能を説明しただけ、と考えるべきです。
 「唯識論」によれば、ある存在や現象がどんな「縁起」であるか、つまり「空」論で言う「関係」は、どのようなものであるかは、客観的に決まっているわけではなく、体験する側や、観測する側によって違う、といいます。

 これは、少し考えてみれば、ごく当たり前のことと言えます。
 たとえば、「父と子」は「縁起」に依る関係であることは間違いありません。
 ところが、「父の父」は「子」から見れば「祖父」であり、「父」から見れば「父」ですから「関係」は同じではありません。
 日本の多くの家庭で「子」から見た「父」は、家中の誰からも「お父さん」と呼ばれ、「祖父」は「おじいちゃん」と呼ばれます。つまり、「子」から見た「祖父」や「祖母」までが、自分の「子」を「お父さん」と呼んだり、「父」から見れば自分の「父」なのに、「おじいちゃん」と呼んだりします。
 たまに、「子」から見た「母」が、子から見た「祖父」に対して「お父さん」などと呼ぶと、幼い「子」は混乱することがあります。
 つまり、あらゆる存在や現象は「縁起」に依る、といっても、「関係」は、その人の「立場」によって、つまり「認識」によって異なり、「認識」抜きにはどんな「縁起」かは決まりません。
 しかも、「概念」は「言語」に依存するものですから、あるものが何であるかは「名称」をつけないと判別できません。

 幼い「子」のいる家庭で、家族の呼び名が「子」を中心に決まっているのは、人間の「認識」の限界を表すものと考えることができます。
 つまり、人間が「現象」を「認識」できるのは、その「認識能力」の範囲内だけであり、かつ、何らかの「名称」なしには「現象」を「認識」することもできない、ということを象徴しています。
 あらゆる「現象」は、「感覚」から取り込まれたイメージが「概念」化し、何らかの「名称」によって、整理されて「認識」されます。「名称」によって「認識」された「現象」とは、「名色」であり、「名色」とは「関係」つまり「空」に他なりません。
 人間にとって、あるものが何であるかは「認識」で決まり、「認識」できるのは「名色」という「関係」に限られます。
 
 「唯識論」は、あまりに複雑化して少々脱線したところもありますが、「我」を排除して「輪廻」を説明し、かつ「空」論の足りないところを補い、現代の「認識論」や「量子力学」「宇宙論」などによって、その意義が再認識されています。

 長老に、つまり「上座部仏教」に言わせると、「唯識論」は「哲学にならない」のだそうです。はて「哲学」は良いことなのか、悪いことなのか、どちらなのでしょう。それはともかく、
 「有」→「空」→「識」という「仏教」の歴史は、お釈迦さまの提唱した「無我」と「輪廻」を両立させるための「哲学的」な苦闘の連続でした。
 「有」論を展開したのは「説一切有部」という、2千年も前に、「上座部」から分かれた「部派」の宗派であり、長老の言う「哲学化」の元凶というべき「部派」です。
 「有」論や「空」論の「哲学」のおかげで、「我」がないことが証明され、「唯識論」のおかげで、「輪廻」の主体、つまり「業」を貯える「識」という概念によって、「我」がなくても「輪廻」が有りうることが証明されました。

 それでは、この2千年余りの間、「上座部」は何をしていたのでしょうか。どんな理屈で「我」がなくても「輪廻」があることを証明できたのでしょうか。
 『般若心経は間違い?』のなかには、「輪廻」について論及している箇所が見つかりませんでしたので、同じく、スマナサーラ長老の著書『仏教は心の科学』という本から拾ってみます。


 そもそも仏教は「輪廻転生する絶対変わらない実体たる魂がある」という概念を断言的に否定しているのです。仏教は、「一切は無常で絶えず変化しつづけるから、またその変化が因縁によって起こるから、輪廻転生が成り立つのだ」というのです。仏教の立場では、すべてが無常でなければ輪廻転生はありえない。すべてが無常でなければ死後はありえないのです。
 因縁論に基づいてものごとを観察するならば、一つの現象が消えていく過程で別な現象が起こるのは当たり前の話です。因果論はすべての現象を説明する全体的な法則です。輪廻転生の概念はその普遍的な法則の一つです。輪廻転生も、無数の現象の中の一つにすぎないのです。だから仏教では「死後があるのだ。転生するのだ」とうるさく叫ばなくてもよいのです。輪廻転生は、常に起きている生滅変化している現象のなかの一つの現象にすぎないのですから。(アルボムッレ・スマナサーラ著『仏教は心の科学』宝島社 P.71)



 これで、「我」を抜きに「輪廻」を説明したことになるつもりでしょうか。こんなことで良いなら誰も苦労しません。
 「上座部仏教」は、「実在論者」や他派との論争を避け、ひたすら「仏陀の教え」だけを、内向きに、守ってきたのでしょうか。

 「輪廻」がひとつの「現象」にすぎないというなら、「輪廻」の前提である「我」も、「業」を引き継ぐという「現象」としては「存在」しうるということです。「現象」として「存在」するなら「空」であり「無」とはいえません。
 「無我」というなら、「現象」としても「我」は「存在」しえない筈であり、「輪廻」の主体が「我」でないこと、つまりどうやって「我」がなくても「業」を引き継ぐという「現象」が起きるのか、を説明しない限り、「我」を否定したことになりません。
 
 スマナサーラ長老の「上座部仏教」は、「ブッダの教え」だけを忠実に守っていると言いながら、「諸法無我」という、その最も基本とすべき「法」について、証明する努力は怠ってきたようです。
 「無我と輪廻」という、明らかな矛盾に、気づかなかったのか、それとも、目を瞑っているのかは知りません。
 しかし、「説一切有部」や「大乗仏教」が、「無我と輪廻」の「矛盾」を埋めるべく、やってきた努力に対し、「ブッダの禁じた哲学化」といって否定し、「矛盾」を放置してきた自分たちだけが「教え」を守った、というのです。

 スマナサーラ長老は、「他人の牛を数え」ているヒマがあったら、ただちに「輪廻」の主体が「我」でないこと、つまり、「業」を引き継ぐものが何であるかを説明するべきです。
 さもなければ「諸法無我」の看板を降ろさなければなりません。 
 

 あまり大乗仏教ばかり批判するのもフェアではないので、一つテーラワーダ仏教の「弱み」というか、面白いエピソードを紹介します。
 テーラワーダ仏教には、大乗仏教と同じように、遠い未来に現れるブッダである弥勒仏(現在は弥勒菩薩)の教えがあります。
 そこでは、「現代のお釈迦さまは智慧を中心に教えを説かれたけれど、未来に現れる弥勒仏陀は慈悲を中心に説かれるのだ」と語られています。こういう伝説の裏には、「お釈迦さまの教えはすごいけど、知識的過ぎてたいへんだなぁ」という仏教徒の気持ちが反映されているかもしれません。(P.147〜148)


 別に「弥勒仏」の話を、「伝説」として持ち出すまでもなく、「阿含経」に拠れば、ブッダは自分の過去世について「三十六回天帝釈となり、また数千回、転輪聖王となり、四天下を領地とし、正しい法によって統治し莫大な財力があった。千人の子供があって、皆勇敢で健康であった」などと語っております。
 その他にも「輪廻転生」を「事実」として語る記述は多数あり、ある家で飼われている犬の前世が、その家の主人の父親だと見抜いた話だとか、相当に支離滅裂なことが「阿含経」には記されています。
 これらがすべて、何かの「喩え」だと考えるにしても、「他人の牛を数える」のように、行われている解釈が、必ずしも正しいものとは限らず、「初期経典」に忠実だということが、「価値」はともかく、どれほどの意義があるのか、疑問を持つのも仕方がないのではないでしょうか。

 ともかく、「経典」を信じるなら、ブッダ自身が「過去世」とか「輪廻」は、はっきり認めているのですから、まずやるべきことは、「我」がなくても「輪廻」の主体があることを証明しなくてはいけません。




『般若心経は間違い?』の間違い(十五/終) 
 
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)より
 
 「あの人は格好いい」というのも「この花がきれいだ」というのも、ただの「世間の合意」です。単純に世間がそのような合意に達しているだけで、真理・事実ではありません。・・・・・
 本来「私」というものは、・・・・・「便利だから「私」と言っているだけです。それなのに私たちは、「私というものは本当にあるのだ」「私は私だ」と硬直して考えてしまっているのです。(P184〜187)



 「世間の合意」として例を出すなら、「あの人は守屋さんという」とか「この花は百合という」などが妥当と考えられます。「格好がいい」とか「きれいだ」というのは、「世間の合意」があるとは限りません。
 自分のことを「私」と呼ぶことは、つまり「私」という「名称」は、確かに「世間の合意」によるものに間違いありません。
 しかし、「私」という「認識」は、「自己」「他者」という「概念」の獲得とともに生じたもので、「私」という「名称」つまり「世間の合意」が先にあったわけではありません。


 色蘊は「肉体を構成する物質」のことです。経典の注釈書「アビダンマ」(論蔵)では、「身体は、絶えず変化して流れる地、水、火、風を基本にした三二種類の物質でできている」としています。・・・・・「地水火風」は文字どおり「つち・みず・ひ・かぜ」と理解してもかまいませんが、むしろ物質の最小単位「素粒子」を指しているようです。・・・・・
 素粒子は、瞬間でも一箇所に停止しません。常に動いています。光も素粒子でできています。光の速度で光子が動いていて、止めることはできません。「光」というからには、絶えず新しい光子が出てきているのです。それを見て私たちは「光がある」という合意に達していますが、光と言う固定したものがあるわけではないのです。身体も素粒子でできているのですから、光と同じ速度で変化しているのです。「私の身体」と言っている間にも、私の身体は変化していくのです。その変化し続ける物質を「色蘊」というのです。
(P.187~188) 


 ついこの前の方で、“地球の重さをグラム単位で量ったり、一日に地球の重さがこれぐらい増えるとか減るとかグラム単位で計算したって、「だから何?」という話です。無駄話です”(P.109) と、語っていた、同じ人とは思えないような、「科学的」なお話です。
 “身体も素粒子でできている” のは、「世間の合意」というか「人類の合意」として、認めるにしても、 “その変化し続ける物質を「色蘊」という” というのは、いかがなものでしょうか。そんな「合意」が本当にあるのでしょうか。
 「身体」などあらゆる「物質」は「素粒子」でできており、常に「変化」しているから「あらゆる物質には実体がない」という言い方は、『般若心経』などの「空」の解説には非常に重宝がられています。
 ところが、この言い方だと、「物質」そのものには「実体」がないにしても、「物質」を「物質」たらしめている「波動」など、「エネルギー」という「実体」がある、と言われれば、やはり「水掛け論」になってしまいます。
 「仏教」を「科学」で説明しようとすると、「地水火風」は「素粒子」を指している、という風に「無駄話」になってしまうことがあります。 

 『般若心経』が「五蘊皆空」「色即是空、空即是色」(色=空)と主張するように、「色」は、人間にとって、あらゆる「情報」を取り入れる機能であり、単に「肉体」とか「物質」などというものではありません。
 もともと「色」というのは、「色界」というように、「眼に見えるもの」、「肉体」を通じて感知できるもの、という意味合いがあり、「肉体」そのもののことではありません。

 さらに、「五蘊」というのは、あくまでも「人間」としての「機能」をいうものであり、「人間」以外にも「五蘊」があるのでしょうか。
 長老は、「色蘊」が「肉体を構成する物質」だといいますが、そうなると、あらゆる「生物」や、「無生物」にも「色蘊」があることになってしまいます。
 もし「人間の肉体を構成する物質」に限定する、と言うなら、さらにひどい矛盾に陥ります。そもそも、「物質」を構成する「素粒子」は、特定できない、というのが「素粒子論」であり、現代の「空」論は、それをかりて、「物質」には「実体」がない、ことの論拠としているのですから。  
 
 受蘊は「感覚」です。私たちの身体には六つの感覚があって、ものに触れると同時に現れます。感覚は常に変わり、瞬時でも一定しません。・・・・・・・・
 それぞれで感じるものは、はっきりと決まっています。眼では色彩しか感じません。眼で音を感じることはできません。耳の聞こえない人が、眼で音を聞くことができるわけではないのです。
 ものに触れなければ、感覚は生じません。眼に光が触れたときに感覚が生じるのです。指で触ると、そのときに感覚が生まれるのであって、指を離すと、もうその感覚はないのです。
 けれども常にものが触れて、感覚が生まれて、生まれて、生まれているのです。だから私たちの感覚が途絶えることはありません。
 何かを見るとき、ずーっと光が変化していて、それが目に触れます。すると同じ速度で感覚が変化します。感覚は身体を構成する要素ですから、つまり私たちの身体は光を見ただけでも変化しているということになるのです。
(P.189~190)


 一体何を述べているのでしょうか。「感覚が生まれて、生まれて、生まれているのです」など、誤植の可能性も含めて、何が何やらわかりません。
 「それぞれで感じるものは、はっきりと決まっています。眼では色彩しか感じません」といいますが、本当でしょうか。眼にゴミが入ったら、「色彩」など分かりませんが、「眼が痛い」という「触覚」だけは充分に感じることができます。長老の眼は、特別なのかも知れませんが、通常の人間はそうではありません。
 また、“光が変化していて、それが目に触れます。すると同じ速度で感覚が変化します” と言いますが、光と同じ速度で「感覚」が変化などできるわけがありません。 
 現在、人類が使える最も短い時間は、1000兆分の1秒というレーザーストロボの発光であり、電子顕微鏡で、「素粒子」の「生滅」によって、原子が変化するさまを、連続する画像として見ることができます。
 また、光の速さという意味なら、秒速30万キロメートルであることが知られています。
 それに対し、神経内を情報が伝達される速度は、秒速100メートル程度ですから、「光の変化と同じ速度で感覚が変化」することなどあり得ません。
 その証拠に、一般的な蛍光灯や、テレビのブラウン管などは、1秒間に50〜60回点滅しているのですが、よくよく見ないと、それすらも感知できません。
 
 
 想蘊は「概念」です。私たちは、感覚で感じたものを何かの概念にするのです。常に想は増えたり減ったりします。感じるたびに想が生まれるので、想は一定しません。・・・・・・
 私の指が鞄に触れた瞬間に、そのことがわかります。「あ、触れた」と。それが sanna、すなわち概念なのです。・・・・・私の声を聞くたびに、皆さんの身体の五分の一が変化するのです。想が生まれるたびに身体の構成が変わるのです。大変なことなのです。
 たくさん記憶したら、sanna がたくさんあるということです。sanna が増えると、そのぶん五蘊の量が多くなってしまいます。
(P.190~191) 
 
 
 長老は、「五蘊」はすべて「素粒子」でできた「物質」か、「波動」だと思っているのでしょうか。「私の声を聞くたびに、身体の五分の一が変化するのです。想が生まれるたびに身体の構成が変わるのです」というのは、そのような意味にしか取れません。
 しかし、「五蘊」というのは「機能」であって、必ずしも「物質的な現象」とは言えません。
 仮に「物質的な現象」だとしても、それは「脳内の現象」であって、「脳」のほんの一部が微妙に変化するだけで、「身体の五分の一が変化する」などということではありません。
 「素粒子」が変化している、という意味では、「五蘊」と関係なく、常に「素粒子」は変化しています。

 また相変わらず、「想」を「概念」と言っていますが、もちろんこれは「間違い」で、「イメージ」というべきです。
 「イメージ」は必ずしも「言語」を必要としませんが、「言語」抜きの「概念」はありえません。
 たとえば、「きれいな花」は、「言語」化した「概念」ですが、「受」が取り込んだ生の「情報」である「眼受」としての「花」を「想」で「イメージ化」し、「識」に記録された「花」や「色彩」や「きれい」などに関する「認識」つまり「言語」化された「概念」が、関連する「イメージ」として呼び起こされ、「想」に送られます。つまり、それまでに貯えた「業」のなかから、今回の「イメージ」に近い記録を検索し、「花」であるかないか、「きれい」であるかないか、などの「イメージ」が決まります。
 すると「想」は「きれいな花」の「イメージ」を「行」に送り、「行」は「きれいな花2」という「意志決定」を行うと、「識」に「きれいな花2」という「意志」が「認識」として記録され、「きれいな花2」という「名称」の「概念」となります。
 こうして「識」に記録された「きれいな花2」という「概念」は、次に「花」とか「きれい」などの「イメージ」が発生したときに、「きれいな花」関連項目として検索され、「行」で「きれいな花3」に当たるかどうかが「意志決定」されます。

 
 行蘊は「衝動」です。何かを感じると、何かを「したい」という衝動が生まれます。その衝動を snaknara というのです。
 私の話を聞いたら、それに対して何かしたくなります。眠くなるかもしれません。でも「眠くて、何もしたくない」とか言いますが、それは嘘です。明白に「眠りたい」という衝動があるでしょう。
 私たちは常に何かしらの衝動があって、その衝動は常に変化しています。衝動がない瞬間はありません。
 息を吸ったら吐きたくなるし、吐いたら吸いたくなるのです。
(P.191〜192)



 人間には「自律神経」というものがあり、呼吸などは、特に意識して、深呼吸とか「息を殺す」とかいうことがなければ、「衝動」などなくても、寝ている間も、呼吸を止めることはありません。
 「行」は「衝動」というよりは、「意志」とか「意志決定」とか「形成作用」などと呼ばれており、こちらのほうが、全く妥当と言えます。
 「眠りたい」という「意志」は「行」ですが、「眠くなる」のは別に「意志」の働きではなく、生理現象ですから、「眠い」という「行」があるとは言えません。
 むしろ「眠気を覚ます」行為が「行」と言えます。また、「眠りたい」ではなくて、「寝る」なら「意志」ですから「行」と言えます。寝ないで仕事をしたいのは「行」ですが、そのまま机で眠ってしまうのは「行」とは違います。
 「眠い」と呟いたり、頬杖をついたり、目をこすったり、横になったり、毛布を被ったりするのは「行」ですが、意に反して、自然と目が閉じてしまうのは「行」とは言えません。

  
 識蘊は「認識」です。指で机を触ると「机だ」と認識します。その認識は光より速く、ずーっと変化していくのです。認識の変化は、恐ろしく速いのです。
 (P.192)



 「その認識は光より速く」と言いますが、人間が「認識」できる時間は、せいぜい100分の1秒が精一杯というところです。「光より速い」わけがありません。
 「素粒子」が「生滅」する時間とごたまぜになっているのでしょうか。「認識」について語るのに、「認識」できないもので語ってどうするのでしょう。

 バラを見て「視覚」として何かを感じることが「受蘊」で、「きれいなバラだ」と「認識」するのは「行蘊」です。その「きれいだ、バラだ」という区別判断をするための情報や価値基準が「識蘊」です。「識蘊」を使って「行蘊」が「識別」しているのです。ですから「識蘊」が働くには「行蘊」が必要で、そこには必ず「想蘊」と「受蘊」も働いています。この四つは、いつでも一緒に働くのです。

 「受想行識」というのは、もともと「道教」をベースにした「中医学」の用語であり、「五体論」に基づくものです。したがって、「受想行識」という言葉をそのまま使うなら、上のように定義を変えて使用しないといけません。
 「中医学」と違う定義で使いたいなら、「受想行識」という中国語ではなく、インド語の表現で論ずるべきです。 
 漢訳の仏典で、「受想行識」が使われる場合、必ず「中医学」の「受想行識」の意味で使われています。また、その多くは、「玄奘三蔵訳」とされているはずです。



「上座部」における「五蘊」は、机上の学問であり、「中医学」の「五体論」のように、「具体的、経験的」なものではなかったのです。
 これは、お釈迦さまが間違えた、というわけではなく、お釈迦さまの時代には、まだ学問として確立していなかったものを、後の時代の人たちが、学問としての肉付けを試みて、あまり成功しなかった、ということでしょうか。
 インドで生まれた「五蘊」の考え方は、「中医学」の「五体論」と結びついて、「中国仏教」では非常に筋の通った理論として展開されるようになりました。
 

 五蘊を一通り説明しました。私たちの身体は五蘊でできているのですが、それらはすべて常に変化しているということになります。
 ということは私はどこにいるのでしょうか?
 この変化をうまくたとえることはできません。パーリ経典にも五蘊の無常を何かにたとえた箇所はありません。五つの無常をまとめたら、それは何にたとえることもできない徹底的な無常なのです。ただ「無常」というしかないのです。
 (P.194〜195)



 「無常」といいますが、長老は、身体を構成する「物質」つまり「素粒子」が常に変化しているということと、「五蘊」が常に変化していることとを、ごたまぜにして論じているようです。
 「五蘊」は「物質」ではないから、「素粒子」で出来ているわけではありません。つまり「五蘊」というのは「機能」であって、「器官」ではないのです。
 「噴水」を例に挙げて「五蘊」を説明していますが、これはそんなに悪くない「たとえ」だと思います。
 「噴水」とは「名称」ですから、「噴水」と名づけられたときから、「世間の合意」があるわけですが、「噴水」という「名称」の根拠となっているのは、演出(設計)によって水が噴出される、という「機能」にあります。 

 「噴水」が噴出する水は、循環しているとしても、もとの水ではありません。
 あらゆる「物質」は不連続な「粒子」でできており、それを「水」という連続した「物質」として保たせているのは「波動」という「エネルギー」とされます。
 「噴水」に使われているノズルや水道管やコンクリートなどの原料となる「物質」も、不連続な「粒子」でできており、「波動」というエネルギーによって、金属や炭素としての原子構造を保っていると考えられています。 
 このような原理から、あらゆる「現象」の根源は「波動」にある、かのように考える人もいるようですが、これは「仏教」で言うと「顛倒」と考えるべきです。
 つまり、「物質」や「電磁波」ごとに異なる「波動」があるのは間違いないと見てよいのですが、だから「波動」が「物質的現象」を決定している、と考えるのは「解釈」を加えた「演繹的」な思考であり、本質だけを見るなら、「物質的現象」ごとに異なる「波動」がある、という「事実」だけで止めておくべきです。
 これは「唯識論」で言うところの「本性境」という考え方で、「想像や解釈」を加えない、物事の「ありのままの世界」という意味です。
 そこから先は、科学者たちの仕事であり、「仏教者」の考えることではありません。
 「仏教者」は、「量子論」や「波動」などにあまり過大な意味を持たせてはいけません。そうでないと「波動」や「エネルギー」こそ「実在」で、あらゆる「現象」の「自性」つまり「我」の根源だ、というような「実在論」にもつながりかねません。そうなると、「仏教」にとって「科学」は、本当に「無駄話」になってしまいます。  

 「五蘊」は、「噴水」と同じように、「物質」ではなく「機能」に冠せられた「名称」です。
 「五蘊」が働けば、確かに「身体」にも変化がありますが、それは「脳」や「神経」のほんの一部に、化学的変化がおきるだけで、「身体」全体の変化でもなく、まして、「素粒子の生滅」とか「不連続な粒子」などということとは、何の関係もありません。
 
 
 五蘊は、一瞬たりとも停止することなく変化しています。「これが私です」と指さして言える、変わらない、一定しているもの(実体)は何ひとつありません。なのに「永遠不滅の魂」など、誰が考えたのでしょうか?
 そんなものはただの世間の合意で、どこにも見つからないのです。「永遠不滅」どころか、一切は「瞬時に生滅」しているのです。・・・・・・・・・・
 私の身体も、机も、物体です。どちらも同じ物体なのです。
 しかし私の身体は感じるのですが、机は感じないのです。突き詰めれば、違いはそれだけです。私の身体には感覚があるから、外の世界の存在も自分自身の物体も認識するのです。もし私の眼の感覚が消えたら、目の前にいる皆さんの姿形の認識は消えます。皆さんには気に入らないかもしれませんが、私には関係ありません。私には私の認識世界しかないので、私にとって皆さんはいなくなるのです。だからすべての感覚が消えたら、すべてが終わりなのです。
(P.195~196)


 これでは、幼稚な「唯識論」になってしまいます。「無常」と「無我」はそれで良いとしても、「輪廻」はどうするのでしょう。「すべてが終わり」ということは、「輪廻」は認めないということでしょうか。
 すると、自分の「過去世」や、犬の「過去世」を語った「ブッダの教え」は、大法螺ということになってしまいます。それとも「経典」が出鱈目なのでしょうか。いっそのこと、あっさりと、「輪廻」など信じていない、といったらどうでしょうか。
 それとも、自分は「阿羅漢」で、すでに「輪廻」から「解脱」している、と言うのでしょうか。
 
    似ているものを長く感じると、「苦しみ」が生じます。ずっと食べていると、苦しくなる。ずっと立っていると、苦しくなる。ずっと座っていると、苦しくなる。息を吸い続けると死にそうなほど苦しいし、吐き続けても死にそうなほど苦しくなるのです。それは感覚が苦だからです。
 同じ波長の音を聞くと、耳が痛くなる、嫌になるのです。バイオリンの同じ音をずーっと三〇分も続けて聞くと、ものすごく嫌になります。気持ち悪くなります。耳がものすごく痛くなります。ピアノはそれぞれの音が途切れていて耳が休むので、バイオリンほど苦痛は感じないでしょう。
 三〇分続けて聞いて腹が立つということは、一分間ならその三〇分の一腹が立つということです。一秒間ならさらにその六〇分の一腹が立つということなのです。つまり何を聞いても苦痛だし、嫌なのです。それがわからないのは、鈍いからです。
 感覚の「楽」とは「苦しみが消えること」です。苦しみが消えると、誰だって気持ちがいいのです。それを「ああ(苦しかったけど)楽になった」と感じているのです。原理的にいって、苦がなければ楽は成り立ちません。 
 「話が極端だ。モーツァルトの音楽は素晴らしいじゃないか」とか言うかもしれませんが、一つの苦が消えて別の音に変わるので、まんまと誤魔化されてしまうだけの話です。世間は巧妙に苦を誤魔化す人に向かって、「あなたはすごく才能がありますね」とか言っているのです。
(P.199~201)


  
 とうてい「文明人」の発言とは思えないような主張ですが、冗談でも言っているのでしょうか。

 「一秒間ならさらにその六〇分の一腹が立つということなのです。つまり何を聞いても苦痛だし、嫌なのです。それがわからないのは、鈍いからです」というのは、「一切皆苦」だからといって、無理やり、何でも「苦」ということにしているのでしょう。それにしてもおかしな計算です。

 しかし、「原理的にいって、苦がなければ楽は成り立ちません」というのは、確かに「縁起」から言えばそうなりますが、その場合、逆も言えるはずです。
 つまり「楽がなければ苦は成り立ちません」ということになってしまい。それでは「一切皆苦」とは言えなくなってしまいます。

 既述のように、「空」の世界では、すべてが「相対的」であり、「苦」がなければ「楽」はなく、「楽」がなければ「苦」もありません。
 ところが、「ブッダの教え」では「一切皆苦」というのですから、「苦」の原因は、「相対的」なものばかりではなく、もう少し「根源的」な原因もあるはずです。
 
 人間が、まだ「自己」と「他者」、または「人類」と「自然」という、対立する「概念」を獲得する以前、人間はまだ「自然」の一部であり、人間にとっては「自然」が自分の身体でもありました。
 「概念」がないのですから、「苦」とか「楽」とかいうこともありません。もちろん、人間以外の動物だって、空腹や病気などのときは苦しいはずですが、「苦」とか「楽」とかいう「概念」はありません。従って、人間のように、より大きな「楽」を得るために、わざわざ「苦」になることをしたり、あとでもっと大きな「苦」になることが分かっているのに、手近な「楽」に興じてしまったり、などという事はありません。

 人間以外の動物は、ただ「知ってる通りに」行動するだけで、人間のように「煩悩」で行動しているわけではありません。
 しかし、人間だけは、「知っている通りに」行動できず、「分かっちゃいるけどやめられない」、「やめときゃよかった」、「やるべきだった」など、「言い訳」やら「後悔」やら、「苦」が増えるばかりで「楽」とのバランスがとれません。

 人間は「苦」を解消しようとして「楽」を求めますが、「楽」を求めることは、必ず、新たな「苦」の原因となります。
 「楽」を求めるには、金がかかる、とか、何らかの犠牲、つまり「苦」をともないますし、「楽」な状態を知れば、今までは「楽」でも「苦」でもなかった、日常ごく普通の状態までが「苦」になります。

 もともと、人間の「苦」の原因は、「自己」と「他者」という「概念」を獲得したこと、つまり「自己疎外」によって、「空」という、すべてが「相対的」で「対立的」な世界を自ら作ってしまったことにあります。  
 すると、人間の「苦」を、根本的に解消する方法は、「概念」を無くしてしまうことですが、今さら、類人猿どころか、原始人にすら戻れません。

 しかし、「概念」を消すことはできなくても、「疎外」を解消することなら、可能性がありそうに思えます。
 そこで生まれたのが「宗教」や「芸術」であり、「自然」や「神」との一体感を感じる、とか、作品を通じて「表現者」に「共感」を覚える、創作された人物に感情移入する、などの方法で、「対立」の世界を離れ、人間の「心」を「癒し」てきたのです。

 しかし、スマナサーラ長老にかかっては、モーツァルトも「巧妙に苦を誤魔化す人」にされてしまいます。
 これでは、「仏教徒の誇りを取り戻す」(P.154)などと言われても、とうてい「共感」できません。
 「仏教」だって、やっていることは、他の「宗教」や「芸術」と同じようなもので、少しでも人々の「心」を「癒す」ことができるから、何とか存在することができるのであり、そうでなければ、「宗教」など、ただ「苦」の原因を増やしているだけのことです。
 特に「出家」修行者や「職業僧」は、「在家」の人々の「喜捨」や「布施」に頼って生活しているのですから、自分の「悟り」よりも、人々の「癒し」になることができなければ、存在価値がありません。


生まれるものは苦である。
あるものも苦である。消えるものも苦である。
苦以外生まれるものはない。
苦以外消えるものもない。

 ・・・・・・・・・・・・
 つまりヴァジラー比丘尼は、「全存在は苦である」と言っているのです。
 この世のすべての現象は、「苦」という一つの概念でまとめられます。
 苦には二つの次元があります。
 一つは、「感覚は苦で、生きるとは感覚があることなので、生きることは苦である」ということです。私たちは、感覚があるから「生きている」とか言うのですが、その感覚が「苦」なのです。だから私たちは、苦しまずに生きることができないのです。苦が生命を維持管理しているのです。「生きる=苦という現象」なのです。「生きることには、微塵も楽しみはない」というのは真理です。
 ちょっとムカッとくるでしょう?「楽しいことは、いろいろあるじゃないか」と反論したくなるのではないですか?
 しかし楽しいことなど、ないのです。「生きるって楽しい」と言えば言うほど、その人の無知(無智)さ加減は強烈です。
 どんな苦しみも、限度を超えると人は死んでしまいます。空腹の苦しみでも、そのままでいると死にます。満腹の苦しみでも、そのままでいると死にます。息を吸って吸って苦しくて、そのままでいると死にます。吐いて吐いて苦しくても、そのままでいると死ぬのです。苦が生命を殺そうとするのです。
 そこで生命が、なんとか延命をはかります。空腹で死にかけのところでひと口おにぎりを食べると、「なんて美味しいのだろう」と天にも昇るような楽しみを味わいます。
 そこで話がこじれるのです。楽なんて苦の「騙し」でしかないのに、「楽だ、楽だ」とありがたがってしまうのです。これはやっぱり無知でしょう?
 ご飯をいくら食べても楽しいなら、止めることはできません。胃がパンパンになって、食道も食べ物であふれ返ります。壁をぶん殴ったときに「これは気持ちいいな」と快感があったら、どうなりますか?何度も壁を殴って、血まみれになって、骨が折れて、手がすっかり潰れても殴り続けるでしょう。
 つまり感覚が楽なら、私たちは簡単に死んでしまうのです。生きていられません。それで苦が生じて、生き延びるのです。生きていくには苦が必要なのです。
(P.201~204)


 こんな「屁理屈」で、共感する人もいないだろう、と思うところですが、そうとも限らないのが「宗教」の怖いところです。
 いったい、「生きることには、微塵も楽しみはない」というのが「真理」でしょうか。「生きるのが楽しい人」は無知(無智)と言いますが、同じ人生を、「楽しく」生きている人と、「苦しく」生きている人では、いったいどちらが「賢い」のでしょうか。

 長老は、「一切が苦」だから、「感覚」が「苦」だ、と言いたいようですが、これは「苦」という「概念」とは関係のない話で、ただ生理的な現象としての「痛覚」などの「感覚」の問題です。
 高等な生物に「痛覚」があるのは、自分の身体を守るためで、「壁をぶん殴ると手が痛い」から、自分で自分の身体を破壊しないで済むようになっているのです。
 もし、「痛覚」がないと、たとえば、水族館の蛸は、よく、自分で自分の足を食べてしまいます。
 蛸の足は、本来再生するものですし、自分の足を食べた場合は再生しなくても、すぐに死んでしまうわけではありません。つまり「痛覚」がなくても生きて行けますが、人間だったらそうは行きません。出血するだけで死んでしまいます。
 つまり、「痛覚」などの「感覚」は、生物が自分の身体を守るために備わったもので、進化によって獲得または保存された、環境適応能力のひとつに過ぎません。つまり、蛸のような、比較的高等な生物でも、生存に必要がなければ、そのような「感覚」は備わりません。

 人間の場合、「空腹感」や「満腹感」は、脳の視床下部にある「空腹中枢」と「満腹中枢」がキャッチした情報によって決まるもので、主として「血糖」が低いと「空腹」、高いと「満腹」を感じるようになっています。「血糖」以外の要因としては、アミノ酸、体温、体脂肪、ストレッチリセプター、などがあります。
 「ストレッチリセプター」というのは、食物によって胃腸が伸びるために「満腹中枢」が反応するもので、長老の言うように、食べ続けると、文字通りに「満腹」で苦しくなりますが、「満腹感」の主因は、これではなく、もっぱら「血糖」にあります。

 「感覚」について、「苦」とか「楽」とか言うのは、あまり意味がなく、「感覚」の働きは、もっぱら「生物」が「身体」を守ることにあります。
 「苦」とか「楽」とかいうのは、人間だけにある「概念」であり、生理的な意味の「感覚」、つまり「痛い」とか「満腹」とかが、直ちに「苦」や「楽」になっているわけではありません。
 体に針を刺すと「痛い」ものですが、鍼灸師がツボに針を刺すと「痛い」ながらも快感を覚えます。また、指圧やマッサージなどを少し強くすると「痛い」のですが、やはり快感となります。つまり「痛い」のに「苦」よりも「楽」を覚えます。
 また、食餌制限中に「満腹」になるまで食べてしまうと、食べすぎさえしなければ「楽」なはずですが、「決まり」を守れなかったという、挫折感や罪悪感を覚えて、逆に「苦」を感じます。
 このように、「苦」「楽」とは、「概念」によって、そう感じるものであり、「痛覚」や「空腹感」などの「感覚」がそのまま「苦」や「楽」になっているわけではありません。

 長老は、生きて行くのに「感覚」の「苦」が必要と言いますが、それは「痛覚」などの生理的な機能であり、「ブッダの教え」としての「苦」とは、あまり関係がありません。 
 「ブッダの教え」としての「苦」とは、「自己」と「他者」という「概念」によって生じる「空」の世界、つまり、「相対的」で「対立的」な世界のこと、と考えるべきです。
 そう考えるなら、この本のなかで、長老が何度も言うように、「苦」と「空」は同じこと、と言えるはずですが、ここでは忘れてしまったようです。




『般若心経は間違い?』(宝島社新書)より 

 お腹の皮と背中の皮がくっつきそうなとき、一個目のおにぎりは絶品です。・・・でも・・・五〇個食べると病院行きで、一〇〇個食べると死ぬかもしれません。
 計算してみましょう。
 一〇〇個食べて死ぬなら、一個食べたときには死の苦しみの一〇〇分の一苦しいのです。・・・・・しかしひと口食べてそんなに美味しいのは、なぜでしょう?
 それは空腹という「苦しみがたくさん消えたから」なのです。・・・それを勘違いして「幸福だ」というのです。・・・・
 ずっと立っていると苦しいから座ります。そのとき「ああ、楽だ」と幸福を感じるのですが、べつに座ることが幸福ではないのです。ずっと座っていたら、それも苦しみですからね。・・・・・
 健康の幸福を存分に味わいたければ、ガンにでもなることです。その人がお医者さんに土下座して、手術、抗がん剤、放射線、温泉療法、健康食品、気功、ありとあらゆることをして健康になったら、「やっぱり健康って何よりありがたい」と、そのとき大きな幸福を感じることができるのです。
 あるのは苦だけなのです。私たちはまんまと騙されているのです。・・・・・・
 世間の人が夢見る最高の幸福は、不幸のどん底でないと感じられないのです。苦が消えることが楽しみなので、幸福を感じるためには、不幸のどん底になるしかないのです。
(P.204~206)



 「苦」と「楽」とは、「相対的」で、互いに「縁起」する関係ですから、「苦」がなければ「楽」もないことは、間違いありません。しかし、その意味では、「楽」がなければ「苦」もないことになり、「全存在が苦である」とか、「あるのは苦だけ」とかいう、長老の主張とは矛盾します。
 「おにぎり一〇〇個」だって平気で食べて、ギャラや賞金を手にする「幸福」な人もいますし、逆に、胃が小さくて一個のおにぎりでも食べきれない「不幸」な人もいます。
 また、長老は、「苦が消えることが楽しみなので、「幸福」を感じるためには、「不幸」のどん底になるしかないのです」と言いますが、その意味では、何も自分が「不幸のどん底」にならなくても、他人が「不幸のどん底」にいるのを見るだけで充分です。「他人の不幸は密の味」というくらいですから。
 
 長老は、「楽」は勘違いで、「苦」が真実と言いますが、もともと「相対的」なものですから、どちらも勘違い、とも言える筈です。
 それでも、人間にとって、「すべてが苦」と言えるのは、「自己」と「他者」という「概念」の獲得が、「苦」と「楽」という「概念」を産み出し、それまでは「苦」でも「楽」でもなかったことを「苦」と感ずるようになり、「苦」を消すために「楽」を取ると、その「楽」がまた新たな「苦」の原因になります。
 つまり「苦の循環」(輪廻)が出来てしまったために、人間にとって「すべてが苦」と言える状態が出現した、と考えることができます。
 

 では、「生きる苦しみ」が完全に消えたらどうなりますか?「生きる=苦」なのです。それがきれいさっぱり消えたら、どうなりますか?
 それを解脱というのです。その境地が涅槃です。輪廻から解脱して二度と生まれない阿羅漢は、完全に苦を断つことに成功した方なのです。釈尊はこうおっしゃっています。
 
nibbanam paramam sukham
最高の幸せは涅槃である


「涅槃に入ると、つまらないのでは?」と言う人がいるのですが、それはある意味で正しいのです。「涅槃には苦しみがないので、俗世間の幸福が成り立たない」のですから。・・・・・・・ 
 本当に人生に楽はないのです。「楽」というのは錯覚で、ただの世間の合意です。
 仕事がなくて困っている人が仕事を見つけたら、幸福を感じますし、それはそうでしょう。否定しません。
 でもそれは「仕事がない苦しみが消えた」のです。だから幸福を感じたのです。その幸福は、「苦しみが消えた」という事実をあべこべに見ただけのことです。苦しみとは別物の幸福があるわけではありません。あるのは苦しみだけなのです。苦しみ以外にはないのです。
(P.207~209)



 「仕事がない苦しみ」といいますが、「仕事がない」のはむしろ「楽」であり、「苦」になるのは、お金が入らないことです。
 多くの人にとって、「仕事」は「苦」ですが、好きな仕事をしている人や、「仕事」がうまくいっている人は「仕事」が「楽」であり、お金があっても、「仕事」がないと「苦」に感じる人もいます。
 「人間万事塞翁が馬」とか「禍福は糾える縄のごとし」などというように、「苦」と「楽」は「相対的」であり、そんなに無理やりに、何でも「苦」と考える必要はありません。ただ「楽」が「苦」の原因になることは間違いないことです。 

 「一切皆苦」は「ブッダの真理」だからといって、「あるのは苦しみだけなのです。苦しみ以外にはないのです」などという、頑固で押し付けがましい態度を取らなくてはいけないのでしょうか。
 この世には、「楽」があることも認めるべきで、「楽」がないなら「苦」も、「縁起」としては、ないことになってしまいます。
 「楽」は「苦」の打ち消しとしてあるのに、さらなる「苦」の原因でもあり、そのような、どうにもならない「苦の循環」すなわち「輪廻」の世界を離れ、「苦」も「楽」もない「悟り」の世界に行くことこそが理想である、ということなら、そんなに難しい話ではないと思うのですが。 
  
 
 「苦」には「感覚の苦」とは違う意味もあります。一切は無常で、絶えず変化していくのですが、この状態も「苦」というのです。・・・・・・・・・・・・・
 このようなわけで、「私の」という気持ちが苦しみを作るのです。「私の」というのは、自分の感覚から生じる錯覚です。だからこの「感覚の苦」を、しっかり観察しなければならないのです。(P.210〜211)


 “「私の」という気持ちが苦しみを作る”というのは、正しい考え方だと思いますが、どうしてそれが「感覚の苦」なのでしょうか。

 「私の」というのは「所有」などの「関係」を表す言葉であり、「自己」や「他者」という「概念」の延長上にあるものです。つまり、「錯覚」であるにしても、決して「感覚」によるものではなく「意志」や「認識」により「抽象化」された「概念」としての「言語」です。
 もともと、「自己」と「他者」という「分別」こそが、「苦」の原因であり、「私の」という「概念」は、観念のなかの全世界を「私の」と「私以外の」に分断する「分別」そのもの、つまり「苦の原因」と言えます。
 しかしそれは、「花が枯れるのが悲しい」というのと、それほど違いがあるわけではありません。
 多くの人にとって、自分の好きな「美しい花」が枯れるのは悲しいけれど、「汚い雑草」が枯れるのは、悲しくないのです。
 「美しい花」と「汚い雑草」というのは「分別」であり、「私の花」と「他人の花」、というのと、なんら変わるところがありません。
 つまり、「私の」に限らず、あらゆる「分別」が「苦」の原因であり、「苦」を解消したいなら、あらゆる「分別」から「解脱」するしかありません。



 修行者にとって「悪魔」とは「自分自身の思考」です。仏教修行をする人は「神様が降りてきて修行の邪魔をする」と考えてはいけません。自分の悪さを、他人のせいにしてはいけません。悪魔は自分の思考、妄想なのです。妄想は感情から絶えず生まれるのです。感情とは煩悩です。だから、まず自分の妄想を減らすことです。それは自分でできます。それが悪魔退治です。
 けれど妄想が減って落ち着きが出てくると、「自分は理性的だ」と勘違いする思考が現れます。「今、私は妄想していない。論理的なことを考えているのだ」と威張るのです。これが悪魔の攻撃です。思考をやめさせてくれないのです。・・・・・
 「理性的な思考」でも、思考にすぎません。真理を知っているならば、思考する必要もありません。フタの閉じた箱があれば、「何が入っているの?」と思考しますが、フタが開いていれば中身が何か思考しません。知っているなら、思考しないのです。逆に言えば、思考するなら、知らないということなのです。「思考する」なら「まだまだ馬鹿」ということなのです。「しっかりとしたことを考えているぞ」「いいことを思い出した」と調子に乗るなら、悪魔の直撃を受けています。瞑想が続きません。悪魔の勝ちです。
 考えて処理しようとすることは、悟りを開かないで、悟ったつもりになることです。だから理性的だと思える思考も「妄想」とカットするのです。これが悪魔の攻撃に勝つことです。
 理性的なこともカットすると、最終的に、仏教的な観念で頭がいっっぱいになります。指導者にもその妄想をやめさせることは難しいのです。なにしろ「生きることは苦でしょう」と向かってくるのですから、「そうじゃない」とは言えないのです。それで「それはそうです」と答えると、「ほら、私は知っているのだ」ということになる。それでも指導者は「思考をやめなさい」と言いますから、修行者は「いつでも同じアドバイスだ。この人は自分が上達していることを知らない。私が思っている真理が嘘だというのだろうか」と反論することになるのです。真理をわかったつもりになっているので、これでは解脱できなくなります。これも悪魔の攻撃です。これは瞑想の厳しいステージで、だいたい誰でも通らなくてはなりません。
 このステージをパスした修行者の解脱を悪魔が邪魔をしているなら、指導者が教えてあげることは簡単です。
 仏教の真理だけ思考するなら、妄想はないし、くだらない思考もないのですから、かなり立派な人です。立派な人ですが、そこに引っかかると悟れないのです。
 しかし厳密に真理を発見した人は、そもそも頭いっぱいに仏教の概念で頭をかきまぜる必要はないのです。
「1+1=2」ですね。これを二四時間考える必要がありますか?知っているから、そんな必要はないでしょう?「知る」ということは、このレベルで明確に知ることなのです。だから修行者は、何か思考するたびに「ただの思考だ」「思考は悪魔だ」と発見すればいいのです。それだけで悪魔を退治して、解脱の道に入ることができます。・・・・
 私たちは「ああ失敗した」「もう少し頑張っておけば」「もっと欲しいのに」などと、始終暗い妄想をしています。生きるという苦の輪廻から、抜け出せないでいるのです。そこで修行者は、妄想を払い、悟りを得るために瞑想修行をするのです。
 一方、完全なる悟りを開いた阿羅漢は妄想しません。阿羅漢は輪廻から解脱し、「成すべきこと」をすべて成し終えた方々です。生命として何も課題がありません。
 悟りを目指す本来の仏教を「衆生の救済を目指さない教えだ。自分の悟りにしか関心がない教えだ」と批判する向きもありますが、それは誤解の極みです。
 悟った人には、欲も怒りも無知もありません。「自分のために」の「自分」がありません。無我なのです。だからこそ、衆生に限りない慈しみを注ぐことができるのです。
(P.212~216)


 ユングなど、フロイト学派によると、仏教の「悟り」は、「意識と無意識の一致」と定義づけられると言います。
 禅宗では、長時間の「座禅」によって「悟り」に導くと言いますが、実際に「悟り」を得るのは、一瞬の出来事であり、頭の中が空白になって、正に「意識と無意識の一致」する瞬間が訪れることがあります。
 このとき、他人から見ると、体がフラフラと揺れたり、居眠りしているように見えるため、「悟り」体験のない指導者が、「警策」と称する棒で、修行者の肩を打ちます。すると修行者は「座禅」に集中するようになり、「悟り」のチャンスを失います。
 逆に、叩かれながら、長時間「座禅」をしていると、必ず「神秘体験」をするようになります。もちろん、幻覚であり、「妄想」に過ぎないのですが、これを、「悟り」とか「阿頼耶識」などと勘違いする人が出てきます。
 我々の学んだ「雲門禅」などは、基本的に「座禅」は行いませんし、変てこな「公案」も使いません。こういったものでは、かえって「悟り」から遠くなるばかりだからです。 
 
 長老は、「思考するならまだまだ馬鹿」とか「思考は悪魔だ」と言い、「思考のない」状態を「悟り」と言うのですから、それも「意識と無意識の一致」という状態と同じことを言っているものと考えることができます。
 また、「1+1=2」のように、“「知る」ということは、このレベルで明確に知ることなのです。” とも言いますから、長老の言う「悟り」は、「知っている通りに行動できる」こと、つまり我々の考える「悟り」と同じかも知れません。
 あらゆる物事に対し「1+1=2」のように、つまり知っている通りに、答えが出せる能力こそ、「悟り」の「智慧」と言う事ができます。

 もちろん「知らない」ことについては、答えが出せませんから、「知らない」ことには、はっきりと「知らない」と言えなければなりませんし、「知っている」ことについては「知っている通りに行動できる」のでなければ「知っている」とは言えません。「行動」というのは、必ずしも、体を動かすことではなく、「意志決定」つまり「行」も含まれます。
 しかし、「1+1=2」とは、どのような知識なのでしょうか。長老の文脈から見ると、「1+1=2」を「真理」と考えているようですが、本当に「真理」でしょうか。
 長老の言う、「真理」の定義は「普遍的で客観的な事実」ですから、「1+1=2」は、正しく当てはまるように見えますが、本当でしょうか。

 発明王エジソンは、幼年時代に「1+1=2」が理解できなくて、「低能児」と呼ばれたそうです。
 エジソン少年の考えは、二つの粘土の塊を合わせると一つになるから、「1+1=1」ではないか、というもので、学校の先生は、どうしても理解させることが出来ず、母親は学校をあきらめたといいます。
 「1+1=2」くらいは、誰でも知っている、と思うかもしれませんが、実は相当に高度な「概念」であり、本当に知っているか、となると、なかなか難しい問題です。
 例えば、一人の人間と、一匹の犬という場合に、「1+1=2」は成り立つでしょうか。
 また、一人の男性と、一人の女性、の場合、「一組の男女」なのか「二人の人間」なのか、エジソンの粘土の場合と同様な問題が起こります。
 「数学」には、そのような問題は捨象して考える、という「約束事」があるのですが、数学者でも「1+1=2」を証明するのは、決して簡単ではない、といいますから、素人では、「二四時間」考えるくらいではとても足りないかも知れません。
 つまり、一般に知られている、「1+1=2」というのは、「真理」でもなければ「事実」でもなく、ただ、そのような「約束事」であり、長老の言い方で言えば「世間の合意」に過ぎません。
 長老は簡単に、“「1+1=2」を知っている”、と言いますが、そんなに「数学」に詳しいのでしょうか。
 もし、「世間の合意」をそのまま受け入れているだけなら、「私がある」のと同じことになってしまいます。

 「1+1=2」を「知っている」ということは、数学者のように「証明」できるか、そうでなければ、「約束事」でそうなっている事を「知っている」かどちらかでなければ、本当に「知っている」とは言えません。

 いろいろ問題はありますが、スマナサーラ長老のように、「悟り」のイメージをきちんと提示できるところが、日本の「大乗仏教」にはない、「部派仏教」の素晴らしいところです。
 しかし、「阿羅漢」には、「もう生命として何も課題がない」、とはいかがなものでしょうか。
 もともと、人間以外の生命体はすべて「悟っている」のであり、人間だけが、修行しないと「悟り」を得られないのです。
 あらゆる生命体の「課題」は、子孫を増やし繁栄させることであり、どの生命体も、その成果を誇ることもなく、また、できなかったことを悔やむこともなく、ただ「知っている通り」に出来る限りのことをやって、あとは、従容として死んで行くだけです。その姿は「悟りを得た人」と何ら変わることがありません。

 もちろん「悟り」を得た人の「課題」は、子孫を増やすことではありません。子孫を生むことは、すなわち「苦」を生むことですから。
 といっても、子孫を生んではいけない、というわけでもありません。それは「生命体」として矛盾することであり、「知っている通り」ではありません。
 すると、「悟り」を得た人の「課題」とは何かと言えば、後に続く人を「悟り」に導き、人間の「苦」を解消させることにある筈です。

 「仏教」のなかでも、「大乗仏教」は、人類全体を「苦」から「救済」するという目標をかかげ、「出家」による「修行」をしなくても、「在家」のままで「救済」される方法を考え、「浄土宗」などのように、「初期仏教」から見たら、「仏教」とは思えないような「発展」を遂げた宗派もあります。
 逆に「大乗仏教」から見れば、「部派仏教」は、個人の「悟り」ばかりで、「人類全体の救済」を考えない「小乗仏教」という批判の対象になりました。
 といっても、もともとインドでは「仏教」の基盤は弱く、民衆は専らヒンドゥー教を支持しており、「仏教」に力があったのは、権力から擁護された期間だけでした。
 やがて、ヒンドゥー教からの弾圧に加え、イスラム教徒による破壊に遭い、「仏教」は、かつて論争を戦わせた「部派」も「大乗」も、インドからは消滅してしまいました。
 チベットや中国など、北方に発展した「大乗仏教」と、スリランカやタイなど、南方に発展した「部派仏教」とは、その後、実際に大きな論争をしたこともありません。

 なかでも日本の「大乗仏教」は、「葬式仏教」などと揶揄されるように、いつの頃からか、「悟り」どころか、「悟り」のイメージすら提示できない状態にあり、「オウム問題」などに対しても何ら寄与するところもなく、「人類全体の救済」などとは縁遠い話です。
 お釈迦さまは「苦行」を禁じたことが知られていますが、しばらく「苦行」すると、必ず、幻覚を見たり、幻聴を聞くようになり、それを「悟り」と勘違いする人がいます。これが長老の言う「悪魔」であり、実は自分で作り出した「妄想」なのです。  
 なかには、「○○如来」や「○○菩薩」に逢ったという人もいて、「神秘体験」と思い込んでしまうのも無理もないのです。
 しかし、「霊」が見えるとか、「神」と話が出来るなどと言っているうちは、古代のシャーマンと特に変わりなく、現代では影響力が小さいのでまだ良い方というべきです。
 ところが、「オウム」などのように、自分を「最終解脱者」などと信じ込み、さらに、信者を集めて同じような「苦行」をさせると、やはり似たような「神秘体験」をするため、集団で「妄想」状態になってしまいます。そうなると、もう手がつけられません。 

 その点、スマナサーラ長老の提唱する「上座部仏教」は、きちんと「悟り」のイメージを提示しており、「オウム」の言うような「解脱」は「妄想」に過ぎないことが、はっきりと理解できるはずです。
 「オウム現象」は、日本の「大乗仏教」が「悟り」のイメージを提示できなかったことに、その原因の一端というよりは、かなり多くがあることは否定できない筈です。
 もっと「悟り」のイメージがはっきりしていれば、「オウム」などにだまされる人は、あれほどはいなかったかも知れません。

 これは「大乗仏教」や「部派仏教」も含めた「仏教」全体に言えることですが、「オウム現象」のもうひとつの原因として「個人崇拝」や「権威主義」という問題が挙げられます。
 つまり「ブッダの教え」だから何でも正しい、とか、逆に、「ブッダの教え」は素晴らしいから「ブッダ」も素晴らしい「人格者」だとか「超人」ということになりがちです。
 日本では、弘法大師とか、法然、親鸞、日蓮など、宗派の開祖が崇拝され、現代でも、麻原彰晃のような新興宗派の開祖までが「個人崇拝」の対象になります。
 現に、島田正巳という仏教学者は、麻原彰晃が「テレビの時代劇はやたらに人を殺すから、たとえフィクションでも見るべきではない」と言ったのを、「これこそ本物の仏教者だ」と評価してオウム贔屓になり、事件の発覚後に大学を辞める羽目になったものです。

 「南華密教」は、元時代に中国に伝わった「チベット密教」がベースになっており、さらに中国の、儒教、道家思想、道教などを取り入れて、独自の発展を遂げたものです。
 儒教には「権威主義」や「個人崇拝」を排除する思想があり、なかでも『論語』の次の文章は、「南華密教」の重視するところです。

 勿以言挙人  言を以って人を挙げる勿れ 
 勿以人廃言  人を以って言を廃する勿れ

 素晴らしいことを言ったからといって、立派な人だと思ってはいけません。
 つまらない人が言った事だからといって、無視するべきではありません。

 つまり、麻原彰晃のように、いくら立派なことを言ったからといって、言うだけなら誰でもできるもので、それだけで信用してはいけない、ということです。
 もうひとつは、誰が言ったことだろうと、その内容次第で採用すべきで、素人の言う事だとかいう理由で、軽視してはいけないということです。
 すると、当然に、偉い人の言う事だからといって、何でも素晴らしいとか、正しいとは限らない、ということになります。

 もうひとつ大事なことは、「仏教」では、お釈迦さまは、その出自から、生まれつき特別で素晴らしい人とされていますが、「南華密教」の考え方は違います。
 釈迦という、もともと平凡な普通の人間が「悟り」を開き、大いなる「智慧」を得て「仏」になった。「悟り」とは、人間の「苦」を解消し、「仏」にするための偉大な「ノウハウ」である。
 つまり、お釈迦さまは、イエス・キリストのような「神の子」などではなく、ただ、少し裕福な家に生まれて、知識豊かな、しかしごく普通の青年でしたが、現実に絶望して出家し「苦行」で死に掛けたところを、村の娘(スジャータ)のくれた乳粥で命を救われ、「なんだ、こんな苦しい修行よりも、たった一杯の乳粥のほうが、ずっと素晴らしく、私の命を救ったではないか」、と「悟り」を開き、菩提樹の下で「大いなる智慧」を完成させました。

 通常、お釈迦さまは、「菩提樹」の下で「悟り」を開いた、と言われますが、「乳粥」で助けられた時に「悟り」を得た、と考えるのは、「南華密教」における、実際の「悟り」体験から来る「イメージ」があるためです。
 「修行」だ「断食」だ、と肩に力が入っているうちは、なかなか「悟り」を得られません。力がスッと抜けたとき、不意に「悟り」が訪れます。
 余談ですが、長い断食の後では「乳粥」のような流動食が良く、急に「おにぎり」など食べますと、咀嚼できずに、詰まらせて死んでしまうことがあると言われています。

 「仏教」の素晴らしいところは、「普通の人間」が「修行」によって「悟り」と「智慧」を得て、「仏」になれる、というところにあり、「権威主義」や「個人崇拝」は、本来の「仏教」の良さを台無しにしてしまいます。



おわりに まことの般若心経 
   仏教は「真理」、すなわち普遍的で客観的な事実を示し、真理に基づいて、苦しみの輪廻転生からの解脱、これ以上ない幸福の境地「涅槃」に至る道を説きます。
 世間の意見はつまるところ偏見で、異論も反論も成り立ちます。昨日「正しい」と賞賛されたことが、今日「間違っている」とこき下ろされるのは普通です。平和な社会の犯罪者が、戦場の英雄となるのです。
 しかし真理には、異論が成り立ちません。
「一切は無常。生きることは苦である」
 これは否定のしようがない真理です。だから仏教は真理に基づき、どのようにすれば生命が幸せに至るのか、論理的、具体的に説くのです。真理に基づくので、仏教には普遍性があるのです。・・・・・
 仏道は、自分の心を高める実践です。仏教とは道徳を守り、慈悲の心で、最高の幸福にチャレンジするのです。本人が精進せすに幸福になるなどという甘い話ではありませんが、苦行の類は一切なく、誰にでも実践が可能です。仏教を実践するなら、誰でもその場で幸福を感じられます。
 ですから仏法が明らかであるならば、「誰にでもできるように簡単にしよう。それが衆生を救うことだ」と考える必要はありません。「誰でも実は悟っている」とか、「どなたかが救い上げてくれる」とか、「この呪文を唱えたら涅槃に到達します」とか言うのは、いかがなものかと思います。そのうえ、「これが本当にお釈迦さまが言いたかったことだ」と創作するのはやりすぎです。
 仏教は、仏陀の教え。まことの般若心経(智慧のエッセンス)は、お釈迦さまの真理の言葉です。皆様には、お釈迦さまの教えを実践して、幸せになっていただきたいのです。
 生きとし生けるものが幸せでありますように。
(P.217~219)


 最後まで、「真理」すなわち「普遍的で客観的な事実」、という主張をくずしませんが、「真理」というのは「規範」であって、「事実」という「記述」とは性質が違う、という、言わば「文法的」な「間違い」に気づかないようです。

 長老の言う「空即是色は間違い」も、「色即是空は、経典に照らして正しいが、空即是色は経典にないから間違い」、あるいは、「色が空であることは正しいが、空はすべて色とは言えないから間違い」ということで、これも、広く言えば「文法的」な「間違い」という事ができます。
 また、「色」と「空」の定義が、「肉体」と「実体がない」だから、これを「リンゴ」と「果物」に置き換えると「リンゴは果物だ」とは言えても、「果物はリンゴだ」とは言えない、というのは、やはり「文法的」な「間違い」ということになります。
 
 つまり、長老の、「空即是色」が「間違い」と言っている論拠は、実は「文法的」な「間違い」の指摘、というべきで、長老自身が「真理」という「規範」を、「事実」という「記述」として表現している「間違い」と変わるところがありません。
 しかも、「色」の定義を「現象の認識」、「空」の定義を「関係の認識」とすれば、「空即是色」は「文法的」に問題なく成立しますから、長老の言う「間違い」は、定義の問題にすぎません。
 もし、定義の違いを「間違い」というなら、それはただ、自分の考えと異なるものはすべて「間違い」と言っているだけのことになり、とても「客観的」とは言えません。

 また、長老は、“「一切は無常。生きることは苦である」これは否定のしようがない真理です。”と言うのですが、「諸行無常、一切皆苦」と、「一切は無常。生きることは苦である」とは、全く同じでしょうか。言葉使いは正確にしないと、意味が違ってくることがあります。

 「仏教」で「一切」という場合、「一切法」を表すという定義があり、「法」とは、規範としての「法」、つまり「五蘊、十二処、十八界、十二縁起、四聖諦」などの「法」と、「記述」としての「法」つまり「あらゆる存在や現象」という意味があります。
 いずれを取るにしろ、「一切皆苦」は、すなわち「生きることは苦である」という意味になるでしょうか。
 また、「生きることは苦である」とは「真理」と言えるのでしょうか。
 確かに、「諸行無常、諸法無我、一切皆苦、寂静涅槃」という「四印」は、「ブッダの教え」として争うところがなく、「仏教徒」にとっては「真理」と言えるかもしれません。
 しかし、「仏教徒」以外の人から見れば、「真理」でも何でもなく、あまり「普遍的で客観的」とは、言えませんし、「事実」と言えるか、となると、「仏教徒」だってそうとは言い切れません。
 逆に、「生きることは苦である」というのは、もしかしたら「普遍的な事実」かも知れませんが、かなり「主観的」であり、「生きることは楽である」という人が一人でもいたら、「事実」とは言えませんし、まして「真理」などとは、とうてい言えません。
   
 “「誰でも実は悟っている」とか、「どなたかが救い上げてくれる」とか、「この呪文を唱えたら涅槃に到達します」とか言うのは、いかがなものか ”と言われますと、確かにどうかと思います。
 ところが、「誰でも実は悟っている」は、「人間以外」と付け加えれば、「間違い」ではありません。
 「どなたかが救い上げてくれる」のも、「念仏で頭を空白」にできた人だけですから、長老の言う「無価値」を知った人と、実はあまり変わりがないかも知れません。
 「この呪文を唱えたら涅槃に到達します」とは誰が言うのでしょうか。『般若心経』なら、そうは言っていませんし、どの宗派でもそんな便利な「呪文」があるとは思えません。「求聞持法」などで「涅槃」に到達したという話も聞きません。

 ご自分の「仏教」を、“「衆生の救済を目指さない教えだ。自分の悟りにしか関心がない教えだ」と批判する向きもありますが、それは誤解の極みです。”と言うように、長老もまた「大乗仏教」を「誤解」しています。

 日本の「大乗仏教」の最大の問題点は、「教理」の問題などより、一番肝心な「悟り」のイメージを提示できないことにあります。 
 「上座部仏教」は、それができるのですから、もっとそこをアピールして貰いたいものです。「教理」や「解釈」の問題だと、今回のように「間違い」という事になるか、せいぜい「水掛け論」になるだけです。
 「部派」だろうと、「大乗」だろうと、構いませんが、「悟り」のない「仏教」では、どうにもなりません。


 これまで、当ブログでは、十五回に亘って、スマナサーラ長老の著書『般若心経は間違い?』について、その「間違い」を論じてきました。
 しかし、その「般若心経は間違い」という指摘について、『般若心経』をもてはやしてきた、日本の仏教者からは、これまで、何の「反論」もありません。

 「南華のブログ(当時)」では、「南華密教」の立場から、「反論」を試みました。あくまでも「南華密教」の立場からの「反論」ですから、「日本仏教」にとってそれほど都合の良い話ばかりではありません。
 特に、「日本仏教」が、『般若心経』を、なかでも「空即是色」を全く理解できていなかったことが、スマナサーラ長老によって暴露されましたが、当ブログでもその点は否定していません。

 同書の「著者紹介」によると、長老は、駒澤大学の博士課程で「道元」の思想を研究されたそうです。つまり「日本仏教」に関する知識について、不足はないはずです。
 当ブログの考えでは、長老は、「玄奘訳」『般若心経』を正しく理解できていません。しかし、長老の『般若心経』に関する理解は、「日本仏教」のそれと、基本的には違いがありません。
 「日本仏教」は、『般若心経』をきちんと解釈できていないことに、今まで気が付かなかったのですから、長老の「間違い」の原因は、「日本仏教」にあると言うべきです。

 この『般若心経は間違い?』という本は、「日本仏教」にとって、その真価を問われる著作なのですが、果たして、「日本仏教」は、筋の通った「反論」が出せるのでしょうか。
 「反論」といっても、「空即是色」は「空=色」の意味ではない、というようなものでは「反論」にならない事は、ここまでお読みいただいた方は、よくお分かりかと思います。        



 
コメント
 
http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2007/10/post_51f4.html
より転載させていただきます。

マダム・エムさま
 
 “『般若心経は間違い?』の間違い (十五)”をTBさせていだきました。
一応、最終回です。

 マルティン・ルターは、近代ボーリングの創始者としても知られています。
 それまで、まちまちだったピンの数を9本に決め、ダイヤモンド型に配置したのですが、後にアメリカ合衆国で、ボーリングブームが過熱し、9ピンボーリングを禁止したところ、10ピンで営業する者が現れ、現在の形が定着しました。

 ルターは、ボーリングを悪魔祓いの儀式に利用し、民衆の前で、「このピンを全部倒せたら神の義が自分にある」と説教しながら、ストライクを連発し、大いに支持を集めたといいます。
 彼は「ポケット」を知っていたのかもしれません。ルター以外は、滅多にストライクを出せなかったので、無知な民衆は、ルターを「超人」と考えたのでしょう。
  
 ドイツ農民戦争では、プロテスタントの教説を信じて領主に反抗する農民の虐殺を容認し、領主からの支持を集めたり、相当に生臭い人のようにも見えます。

 農民の反抗は、「悪い人が悪い行いをした」と考えたのでしょうか。元をただせば、カトリック教会や領主制度を批判した、自分の教説が農民の反抗を呼んだのに。
 

投稿 南華 | 2007/10/31 09:54
| | 2007/10/31 9:20 PM |


南華さま

トラックバックありがとうございます。
いよいよラストですね。では、ゆっくり拝読させていただきます。

> それまで、まちまちだったピンの数を9本に決め、ダイヤモンド型に配置したのですが、

いわゆる九柱戯っていうのかな?
ルターはボーリングが得意だったのですか。ストライク連発はすばらしい。おもしろいですね。

> ドイツ農民戦争では、プロテスタントの教説を信じて領主に反抗する農民の虐殺を容認し、領主からの支持を集めたり、相当に生臭い人のようにも見えます。

そうですね。しだいに保守的になっていくのでしょうか。前半生と後半生でだいぶ違うのかしら。
南華さま、いろいろ詳しいんですね。勉強になりました。ルターはボーリングが得意っていうのは、メモしておこうっと。

投稿 管理人エム | 2007/10/31 21:11
|| 2007/10/31 9:24 PM |

 
コメント
http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2007/10/post_99a2.html
より転載させていただきました。

南華さま

「『般若心経は間違い?』は間違い」(十五)を拝読し終わりました。熱いです。南華さまの気持ちが伝わってきます。とてもおもしろかったです。

率直に申しあげますと、スマナサーラ長老さまの文章も説得力があり、それと同時に、南華さまの文章にも説得力があります。
南華さまの「色蘊」などの科学的な解釈に対する警鐘は、わたしも同じような感触をもちます。

> ところが、この言い方だと、「物質」そのものには「実体」がないにしても、「物質」を「物質」たらしめている「波動」など、「エネルギー」という「実体」がある、と言われれば、やはり「水掛け論」になってしまいます。

> そもそも、「物質」を構成する「素粒子」は、特定できない、というのが「素粒子論」であり、現代の「空」論は、それをかりて、「物質」には「実体」がない、ことの論拠としているのですから。 

このあたりのご説明は、もう、ほんとにおっしゃるとおりです。
部派は、世俗諦を積極的に説きますから、どうしても実在論に傾きやすい傾向があると思います。その点を示唆されていると思います。

ただ、その点、スマ長老さまも「空」ということをよくご存じなので、かなりうまく説明されていると思いますが、それでも、このような反論をもらってしまうのですねぇ。
 
一般の人にわかりやすくすると、素粒子論を借りることが多いのですが、世俗諦の話ならまだなんとかいけるとしても、「空」の説明にはまずいと思います。
スマ長老さま、世俗諦にとどめて、ここは微妙にうまいことすり抜けてるように思います。

このようなことを申しあげては失礼ですが、けっこう、楽しい論戦です。南華仏教と部派仏教と、お互いに自分の主張すべきことがしっかりありますので、そこを基盤に揺るがないのだと思って、拝読しました。
いろいろご批判は、「なるほど」と思うものもあり、また、「これはちょっと」と思うものもありますが、学問上のことは、両派にとって結局些末であると思いました。

たいへん興味深かったのは、「悟り」のイメージという点で、部派との共感を述べておられるところです。

>  もちろん「知らない」ことについては、答えが出せませんから、「知らない」ことには、はっきりと「知らない」と言えなければなりませんし、「知っている」ことについては「知っている通りに行動できる」のでなければ「知っている」とは言えません。

これぞ、ブッダの悟りですね!
思考を排除して、「悟り」を瞑想によって得ようとするとき、ほんとうは、このような『般若心経は間違い?』で述べていることや南華さまのブログにあるようなことは、ほとんど必要のないことで邪魔なことなのだと思います。ただ、一般の人に誤解なく仏教を伝えようとするところで、このような論争は必要になると思います。
そして、この論争で明らかにされねばならないのは、結局、「色即是空、空即是色」とは何か、言語上の論戦に終わらない解釈であると思います。要するに、「悟り」のイメージを言語化するという段階まで高めた説明です。

南華仏教では、以前に、玄奘訳に基づいて解釈するとおっしゃっておられたので、立場ははっきりしていると思います。ほんとは、もう少しよく、わたしの方は南華仏教をよく勉強しなければならないのですが、ブログだけしか知らなくてすみません。
南華仏教は、部派の反論に答えた、ということで、ご自分の立場を明らかに確立されました。
そのように、わたしは受けとりました。

他の大乗仏教は、どうなのかわかりません。答えねばならないのではないかと思いますが。

で、わたしとしは、「悟り」の行も何もないので、スマ長老さまの「思考するならまだまだバカ」という、この「思考」を「瞑想」として進まなければなりません。バカも極めれば、なんとやら。。というところに賭けるわけです。

そのような、思考バカの立場からいいますと(笑)、『般若心経は間違い?』の説明の中で、もっとも、納得してしまったのが、「『般若心経』はあまり勉強していない人が作った経典ではないかな」(一〇一頁)というスマ長老さまの言葉なのです。

今のところ、この意見、わたしとピッタリなんですよ。「ああ、やっぱりなぁ」という感じです。気持ち的には、『般若心経』の思想はわかるんです。思想は高度です。そして、その点、その気になれば、わたしはかなりうまく説明できるのじゃないかと思います。
思いますが、それを言えないのは、ただ一つ、自分のよりどころの「思考バカ」の立場なんです。それが、説明を許さないのです。論が、「龍樹くずれ」で、どうしようもない感じなのです。
ただ、これは「今のところ」です。言語・文法を超えた「瞑想」の観点というのをもっと「思考」に入れていくと、また、ちがってくるのかもしれません。
『般若心経』は、先の長い仕事になりそうですが、ぼちぼちやっていきたいと思っています。

南華仏教の禅のお話しをもっとおうかがいしたいです。たいへんなご労作をありがとうございました。


投稿 管理人エム | 2007/11/04 12:04
| | 2007/11/04 1:53 PM |

マダム・エムさま

 丁寧なご批評ありがとうございます。
 しっかりと読んでいただきまして、御礼申しあげます

 ただ、南華仏教ではなく、「南華密教」です。
 「南華密教」につきましては、『密教秘伝-「西遊記」-張明澄、究極の密教を語る-』(張明澄著・東明社刊)に、基本的なことはほとんど書かれていますから、是非お読みください。(ブログ記事に「はじめに」を掲載しております)

 「悟り」とは「知っている通りに行動できる」ことであり、持っている「知識」が間違っていたら悟っても仕方がない、というのが「南華密教」の立場ですから、「八正道」の「正見、正思、正念、正定」には特に力点を置いており「実学」が充実しております。
 ルターの「ボウリング」の話も「実学」で扱ったものです。

 「禅」につきましては、「南華密教」とはまた別の話で、張明澄師は、「南華密教」の他に「雲門禅」を継承しており、我々も「雲門禅」を伝授されております。

 「雲門禅」から見ると、日本の「禅」はかなりいい加減で、例えば、『無門関』「十四・南泉斬猫」にある「趙州頭戴草鞋」のような非常に有名な公案が、まるで頓珍漢な解釈になっています。

 そこで提案ですが、先日の「自己より愛しいもの」の時のように、この公案を出題されたらいかがでしょう。
 有名な公案なので、ネット上にも、原文、読み下し、解釈、等いろいろありますから、参考にされたらよいかと思います。

投稿 南華 | 2007/11/04 16:20
| | 2007/11/04 4:33 PM |

南華さま

> ただ、南華仏教ではなく、「南華密教」です。

申しわけありません。部派仏教と書いたとき、筆がすべってしまいました。おわびして訂正します。
これから暇をみて『密教秘伝-「西遊記」-張明澄、究極の密教を語る-』(張明澄著・東明社刊)、ぜひ拝読させて頂きます。

>  そこで提案ですが、先日の「自己より愛しいもの」の時のように、この公案を出題されたらいかがでしょう。

おお、なんたるご発想。思いもよりませんでした。でも。。。おもしろいかもしれませんね。。。ちょっと検討してみましょう。
案外、いけるかな、どうでしょうか。

どうもどうも授業のテーマまでいただいて、ほんとうにありがとうございました。

投稿 管理人エム | 2007/11/05 21:21
| | 2007/11/05 9:44 PM |  
 

 
   エッ!「空即是色」は間違い? 

エッ!「空即是色」は間違い?
 

 『中陰の花』で第125回芥川賞を受賞された作家で、臨済宗僧侶でもある玄侑宗久さんの『仏弟子の世間話』という本を読みました。
 この本は、玄侑宗久さんとアルボムッレ・スマナサーラ氏(スリランカ初期仏教長老)との対談本という形式をとって、仏教について論じています。
 なかなか面白い本なのですが、なかでも驚いたのが、「空即是色は間違い」という項目です。

 少し引用してみましょう。
                        
(55頁~)                 ー 引用開始 

スマナサーラ ですから「色はみな空である」というのは真理ですが、「空は色である」というのは、論理的におかしい。「物質的現象には、実体がない」は真理ですが、「実体がないのは、物質的現象である」となると、わけがわからない。感覚も意識も無常であって、実体はありませんよ。だから私たちにすれば冗談も休み休み言ってほしいくらいです。
   

                       -引用終わり
 

 つまり「空即是色は間違い」というのは、玄侑さんの考えではもちろん無く、スマナサーラ長老個人だけの主張でもなく、長老の属するスリランカ仏教の統一見解ということのようです。

 私には非常に理路整然とした解説のように思えるのですが、皆様はいかがでしょうか。
 これを読んだら誰でも納得してしまいそうな気もしますが、はてな?これはかつて張明澄先生からご教授いただいた『般若心経』の解釈とは違っています。
  
 『般若心経』は最も重要な経典のひとつとして、
南華密教講座では何度か扱っていますが、この一番肝心な部分は第五回講座で解説されています。
          
 南華密教第五回 講義録(掛川掌瑛篇)より       ー 引用開始  

 色不異空 色は空に異ならず
 空不異色 空は色に異ならず
 色即是空 色は即ち是れ空
 空即是色 空は即ち是れ色
 受想行識(じゅ・そう・こう・しき)
 亦復如是 また是れの如し

 これらの文句が非常に大切な部分だが、あまり日本では適切に訳されていない
 「空」=縁起ー現代の言葉では「関係」という

 関係 同時的相互関係  
     前後的因果関係
 
    ・・・・・・・・・・・・・・・・(省略)

 色は空と同じで、空は色と同じです。色は空であり、空は色です。このことは受・想・行・識についても言えます。
  
 すべて感覚で捉えられる存在や現象は、みな同時的相互関係、前後的因果関係によるものであり、実体のあるものではありません。
 そしてこれらの関係は感覚で捉えられる存在や現象を作り出します。だから、存在や現象は関係、関係とは存在や現象であるともいえます。
 従って外からの情報の受け入れ、イメージの形成、意思決定、思考と行為の記憶についても同じと言えます。

                      ー 引用終わり
                       
 つまり、南華密教では「色」を「すべての感覚で捉えられる存在や現象」と定義し、「空」は「同時的相互関係と前後的因果関係」(によるもの)と、定義しております。

 日本では、岩波文庫の中村元さんの訳も含めて、「色」は「物質的現象」、「空」は「実体がない」と解釈されていますから、なるほど「物質的現象」と「実体がない(もの)」では完全にイコールとは言えません。
 スリランカの長老は「色即是空」は正しいが「空即是色」は間違いである、とおっしゃっておられます。
 ところが「○○即××」というのは「○○は××に含まれる」、という意味ではなく、むしろ「○○と××は同じものである」という意味ですから、「色」と「空」が完全にイコールではない、ということは「空即是色」が成り立たないだけではなく「色即是空」もまた成り立たないのではないでしょうか。

 これに対し、「感覚で捉えられるすべての存在と現象」と、「同時的相互関係と前後的因果関係」(によるもの、以下「関係」と略す)とを比べてみます。
 例えば「親子」という存在(現象)は、明らかに「関係」によって成り立っており、「関係」を除外したら「親子」という存在も現象も感知することができません。
 それなら「親子」ではなく、単なる「大人」と「子供」という存在(現象)を考えて見ます。すると「大人」というのは「子供」が年月を経て成長(老化)しただけのものですから、年が上とか、体格が大きい、といった「関係」を除外したらやはり感知することができません。
 ならば「人間」ならどうでしょう。そこに存在する現象が「人間」であるには、顔や形が人間の形態である、とか、人間らしい衣服を身に着けている、とか、言語を話すことができる、とか何らかの「関係」がなければ感知することができません。
 さらに、それが何だか分からないものである場合はどうでしょう。ある存在や現象が意味不明のものである場合、人間はその事象に対して「何?」とか「あれ」とか「それ」とか「UFO」などと名づけて関係付けようとします。
 つまり、どんなものであれ、人間が存在や現象を感知するということは、意識的または無意識的に何らかの関係付けを行っていることに他ならず、「存在や現象」と「関係」はイコールである、つまり「色」と「空」は等しい、ということができます。

 『仏弟子の世間話』の101頁に、

スマナサーラ ブッダは・・・・「人と喋るときに分からない単語を使うなら、すぐに定義しなさい」と言っています。

 とあり、全く私も同感なのですが、この長老のお話しは、用語の定義という根本的なところで、自分とは違う立場や解釈がある、ということを忘れているようにも思えます。
 しかし、岩波文庫の訳を見ても分かるように、日本で行われている『般若心経』の解釈に関するかぎり、この長老のご意見は、正しいのかも知れません。
 
 玄奘三蔵法師は、インドから経典を持ち帰った後、すべて訳し終えた時点で、持ち帰った経典全部を焼き払ってしまったと言われています。
 つまり、玄奘の時代には中国仏教はすでに進化しており、インドの古い経典を忠実に訳しても無駄だと考え、勝手に意訳を加えて、原典は始末してしまった、という説があります。

 すると『般若心経』の訳も、原典の間違いを承知の上で、あえて中国仏教のレベルで訳した、とも考えられますが、スマナサーラ長老によれば、訳には間違いがないといいます。
 ただ、玄奘が使った「受」「想」「行」「識」というのは、中医学や道教の用語であり、中村元さんによるサンスクリットからの訳である「感覚」「表象」「意志」「知識」などとはニュアンスが異なるものです。

 「空即是色」が間違いというのは、スリランカ仏教の統一見解か、長老個人の見解かは確認できませんでしたが、中国仏教、少なくとも南華密教においては、「空即是色」は「色即是空」と同じく正しいと言えます。
 逆に、「色即是空」は、スリランカの長老の解釈とは意味が違っており、もし、スマナサーラ長老の立場で言うなら「色即是空」もまた間違いと言うべきです。

 スマナサーラ長老の言説は、スリランカ仏教のようないわゆる小乗仏教が正しくて、大乗仏教は間違っている、ということのようですから、本当に言いたいことは、『般若心経』はすべて間違っている、ということになります。
 
 何が正しくて何が間違っているか、というような、人間の思想や信条などは、知識や論理によって決まるというよりは、その人の置かれている立場によって決定される、と言うべきです。

 このようなことは「空」とも言えますが、「空」であれば、実体のない夢や幻などと言って、囚われることもないのが「悟り」のはずですが、とっくに悟っているだろう長老でさえ囚われているのが「立場」というものです。

 そしてこの「立場」という問題こそ、「空」だけでは解決できない、「唯識」に関わる問題なのですが、そのお話はまたの機会にしたいと思います。



 この記事“エッ!「空即是色」は間違い?”について、玄侑宗久師からメールをいただき、何通かやりとりしております。
 近いうちに公開でコメントをいただけるようなのでお楽しみに。

 玄侑宗久師自身の『般若心経』の解釈については、この対談のあとで書かれた『現代語訳般若心経』(ちくま新書)に、「色即是空」でしかも「空即是色」(77ページ)といった表現があり、スリランカの長老の意見に同意ではないことは分かります。
 ただ、今回も触れたように、サンスクリットの『般若心経』と漢訳には、非常に微妙でしかも大きな違いがあります。
 次回はこれをテーマに書いてみたいと思います。





 『般若心経』−漢訳とサンスクリットの違い ~続
   三蔵法師が漢訳した現存最古の般若心経発見
 
 般若波羅蜜多心経
 
 観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。
 照見五蘊皆空。度一切苦厄。


(“玄奘本”サンスクリットの邦訳ー中村元・紀野一義)
 求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。

(“玄奘訳”漢訳の邦訳ー張明澄・掛川掌瑛)
 観自在菩薩は深遠なる智慧を実践した時、存在するものの五つの構成要素はただの関係(空)であると明らかにして見せてくださり、求道のすべての苦しみや災難を無くすようにしてくれました。

 観自在菩薩は、求道者にして聖なる観音、とほとんど同じ意味です。
深遠な智慧の完成を実践していたときに、と、深遠なる智慧を実践した時、も別に変わりません。
 しかし、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれらは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった、と言うのと、存在するものの五つの構成要素はただの関係(空)であると明らかにして見せてくださり、とでは、意味がずいぶん違ってきます。
 見きわめた・・・・見抜いた、というのは、観音が自分で修行して初めて見極めて見抜いたのであり、明らかにして見せてくださり(照見)、のほうは、観音はもともと知っていたことを、衆生に対して明らかにして見せてくださった、という意味になりますから、観音の立場が全く違っています。さらに漢訳のほうは、その結果として、求道のすべての苦しみや災難を無くすようにしてくれました。と続けており、サンスクリットよりも漢訳のほうが観音をはるかに偉大なものとして描いていることになります。 


 舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。

(“玄奘本”サンスクリットの邦訳ー中村元・紀野一義)
シャーリプトラよ、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
 実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
 (このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。



(“玄奘訳”漢訳の邦訳ー掛川掌瑛)
舎利子よ(感覚で感知できる)存在や現象は、すべて関係(の認識)に他ならないし、関係もまたすべて存在や現象と違わないのだ。存在や現象は関係であり、関係は存在や現象である。


 長老が批判するように、人格者として知られる中村元さんの、まるで文章にならない、でたらめな訳文のために、般若心経を理解できなくなってしまったのは残念なことです。
 シャーリプトラというのは釈迦の十大弟子の一人であり、岩波文庫版『般若心経』の巻末にある「大本『般若心経』邦訳」によると、釈迦の瞑想中に、長老が求道者の観音に、「もし立派な若者が深遠な智慧の完成を実践したいと願ったときには、どのように学んだらよいか」とたずねた時に、観音が答えて言ったのが、シャーリプトラよ、〜以下の内容である、ということになっています。
 つまり観音は若き求道者であり、長老の質問に立派に答え、あとで瞑想を終えたお釈迦様が大いに喜んだ、という内容になっています。
 ところが“玄奘本”ではその辺が捨象され、観音がシャーリプトラに教えを垂れているいるかのように、つまり観音をシャーリプトラ長老よりも偉いもの、として描いているわけで、そのように表現している邦訳も存在します。
 これについて、例のスリランカの長老が異議を唱え、「シャープリプトラよ〜」は引用であり、あくまでも、長老のシャーリプトラが若造の観音にした質問に観音が答えたものだ、と主張したのです。(『仏弟子の世間話』60頁〜)
 またスリランカの長老は、邦訳も漢訳もサンスクリットの訳自体は合っていると言っておられるようですから“玄奘訳”の意図どころか“玄奘本”の意図も理解しておられないのでしょう。
 もっとも理解すればするほどに『般若心経』=大乗仏教に反対するのでしょうけれど。 
 また、スリランカの長老が、「色即是空」は正しいが「空即是色」は間違い、と発言されたことは前の記事で述べました。  
 
 物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。

 これを漢文で表現しますと「色即是空、因空是色」(色は即ち是れ空、空に因りて是れ色)となり、実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。
 また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。は、「云空不離色、又色非離空為色」(空と云えども色を離れず、又色は空を離れて色と為すに非ず)という風に非常に煩わしい文章になってしまいます。
 ところが、唐の時代には駢文(ヘンブン)という文体があり「色不異空、空不異色。色即是空、空即是色」という風に対句を並べると、非常にすっきりとした文章になります。
 玄奘が、駢文の対句に拘ったのか、翻訳以上の内容に改変したかったのかは、想像するしかありません。
 しかし「色即是空」を「存在や現象(の感知)はすなわち関係(を認識すること)である」と訳せば、色と空は完全にイコールですから、当然「空即是色」も成り立ちます。つまり、A=BならB=Aという関係になります。
 スリランカの長老は、「人間はみんな死ぬ」は正しいが、「死ぬものはみんな人間だよ」は成り立たないから、「空即是色」は間違いだと論じていますが(『仏弟子の世間話』57頁)、それを言うなら、「生物はみな死ぬ」と言うべきです。「死ぬものはみな生物」ですから。


 受想行識亦復如是。

(“玄奘本”サンスクリットの邦訳ー中村元・紀野一義)
 これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
       
(“玄奘訳”漢訳の邦訳ー掛川掌瑛)
これと同じように、感覚による情報の取り入れ、情報によって生ずるイメージ、自分の言動を決定するエネルギー、一生の思考と言動の記録、これらもみな関係(を認識すること)でしかありません。 


 玄奘という人は法相宗ですから「唯識」の大家であり、「受・想・行・識」という用語は道教や中医学の「五体論」に基づくもののはずです。
 「五体」とは「識・神・気・精・力」の五つからなり、「識」とは意志や意識、「神」とは感受、「気」とは体の秩序を保つ機能、「精」とは全身のエネルギー、「力」とは筋肉などの物理的な力を意味します。
 五体を五行に分けると「識」は木行で「陽識」が甲、「陰識」が乙、「神」は火行で「陽神」が丙、「陰神」が丁、「気」は金行で「陽気」が庚、「陰気」が辛、「精」は水行で「陽精」が壬、「陰精」が癸、「力」は土行で「陽力」が戊、「陰力」が己、となっております。
 例えば「気功」というのは、「陰神」(丁)で「陽気」(庚)を鍛えて増やし貯えることであり、「小周天」という功法が用いられます。(子平でも、丁と庚の関係を「煉金」と言います)

 もういちど整理しますと、
 「受」は「陽神」で、感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)による情報の取り入れ。
 「想」は「陰神」で、感覚情報によって生ずるイメージ。
 「行」は「陽識」で、自分の言動を決定するエネルギー。
 「識」は「陰識」で、生まれてから今までの思考と言動の記録。

 また法相宗では、「受」を前五識、「想」を第六識(意識)、「行」を第七識(末那識)、「識」を第八識(阿頼耶識)とも言います。  

 “玄奘訳”の「受・想・行・識」には以上のような意味合いが含まれるものと考えられ、サンスクリットからの訳と比べますと、似たような言葉にはなっているものの、内容は必ずしも同じではありません。 

 『般若心経』の「大本」と「小本」は、実際に、どちらが先にあったかは分からないわけですが、玄奘三蔵の時代には、両方あったと考えて間違いはないでしょう。
 つまり玄奘は「小本」だけを選んだのですから、これも一種の編集行為と言えるのではないでしょうか。つまり「大本」もあるよ、とは言わなかったのですから。
 十七年もの歳月と命がけで収集した経典なのですから、学問的成果として、より多くの資料を残すべきなのに、自分の考えに合ったものだけを選び、さらに自分のレベルに合わせた翻訳をして、事実上は経典すべてを玄奘流に書き換えた、というのが私どもの見方です。


(補注)道教の「山」(仙道)には、「出陽神」という技法があり、瞑想によって「陽神」つまり「感覚」を体外に出し、遠くにあるものを見てきたり、肉体があるのと違う場所で姿を見せたりすることができます。丁度「生き霊」などと言われるものと同じ現象と考えることができます。



続 『般若心経』-漢訳とサンスクリットの違い
 

舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。
 
(“玄奘本”サンスクリットの邦訳ー中村元・紀野一義)
シャーリプトラよ。
この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
 生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。

 
(“玄奘訳”漢訳の邦訳ー掛川掌瑛)
シャーリプトラよ、この諸々の存在や現象は(実体があるかどうかは判らない)関係(の認識)であるから、関係抜きで生まれたり、関係抜きで滅んだり、関係抜きで汚れたり、関係抜きで清くなったり、関係抜きで増えたり、関係抜きで減ったりすることはないのです。

 つまりここでは、関係(空)に依存しない存在や現象は何もない、と言っているわけですが、漢訳の文章に比べてサンスクリットのほうがあっさりと書かれており、「空」に依存しない限りそのような現象もない、というところが強調されていません。
 「生滅」のような現象(色)があっても、それは「空」であり、実体があるかどうかなど人間には判らず、ただそのような「関係」として認識されるだけ、というのが「色=空」の正しい理解というべきです。




エッ!「空即是色」は間違い? 2007-02-04

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