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老子 第一章~二十章 道可道非常道、天下皆知美之為美、不尚賢、道冲、天地不仁、谷神不死、天長地久、上善如水、持而盈之、営魄抱一、三十輻共一轂、五色令人目盲、寵辱若驚、無状之状無物之象、 豫兮若冬渉川,猶兮若畏四隣、公乃全,全乃天、太上不知有之、大道廃有仁義、絶聖棄智、絶学無憂、

    老子 第一章

道可道非常道。名可名非常名。 

無名天地之始、有名万物之母。 

故常無欲以観其妙。常有欲以観其徼。 

此両者同出而異名。

同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門




道可道非常道

道の道とすべきは、常の道にあらず

この世には、「法則」「原理」「真理」などと呼ばれるものがありますが、永久不変の「法則」「原理」「真理」と言えるものは無く、時間的・空間的条件により、どんな「法則」「原理」「真理」も変化してしまうものです。



名可名非常名

名の名とすべきは、常の名にあらず

名前とは、あるものが何であるかを認識するためにあります。

ところが、「法則」「原理」「真理」などと同じように、名前は絶対的なものではなく、時間的・空間的条件が変化すれば、名前も変わってしまいますし、名前が同じでも意味が違ったりするものです。しかし、人間は名前が無ければ、そのものを認識することができませんから、どんなものであれ、必ず名前をつけて呼ぶのです。

(仏教では「十二縁起」のなかの「名色」という考え方が、この論に該当します。 十二縁起ー空と疎外-「悟り」へ



無名天地之始、有名万物之母

天地の始めを無と名づけ、万物の母を有と名づく

宇宙の始まりには、まだ何も無かった、と考えることができますが、何も無い状態には、認識する主体も客体もおらず、認識することができません。このような、何も認識できない状態を「無」と言います。人間は何にでも名前をつけないと認識できないので、何も認識できない状態にまで「無」と名づけて、無理やり認識しようとしたのです。

 宇宙が始まると、あらゆる現象に名前をつけて認識することができるようになり、あらゆるものが存在できる、つまり生まれるようになります。このような状態を「有」と言い、すべてのものの根本と言えます。

(初期の仏教では、あらゆるものは絶対的なものではなく、分類することによって存在が規定できるという考え方で、「五位七十五法」という分類法を編み出しました。これを「有論」または「倶舎論」と呼びます。もともと、存在や現象など、ものごとに名前をつけること自体が、「分類」を行って認識しやすくしている、と言うこともできます)



故常無欲以観其妙。常有欲以観其徼

故に、常に無をもってその妙を見んと欲し、常に有をもってその徼(きょう)を見んと欲す

つまり、認識できない、実体の無い現象に名づけた「無」という名前にこそ、抽象化や概念化という、人類の智慧を見出すことができますし、実体のある、認識できる現象に対しては「有」という名前をつけて認識し、やはり抽象化・概念化することに成功したのです。



此両者同出而異名

この両者は同じ出にして、しかして異名なり

このように、「無」と「有」とは、根本的には同じことを表すものであり、あらゆるものに名前をつけ、抽象化・概念化して認識することを表しています。

また、「無」と「有」は、対立する概念であり、「無」が無ければ「有」もなく、「有」がなければ「無」も無い、という関係にあります。

(このような「関係」を仏教では「空」と呼びます。「空」は「縁起」とも呼ばれ、あらゆる物事は、「前後的因果関係」と「同時的相互関係」という「関係」によって成り立つという考え方を意味します。例えば、人間の子供が生まれるためには、先に父親がいなければなりませんが、父親は生まれつき父親なのではなく、子供が生まれることによって父親になるもので、父が無ければ子はなく、子がなければ父も無い、という「関係」にあります)



同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門

同じくこれを玄と言い、玄これ又玄、衆妙の門なり

 あらゆるものに名前をつけること、つまり抽象化・概念化して認識することこそが、人類の智慧というべきものであり、人類が他の動物と一線を画するものです。中でも「無」と「有」という概念こそは、叡智と言うべきであり、このような認識の仕組みを正しく理解することにより、人間はさらに高度な認識に達することができます。

 (あらゆる存在や現象は「認識」によって規定される、という考え方を、仏教では「唯識論」と言います。さらに「密教」の段階になりますと、ある人の「認識」はその人の置かれた立場、すなわち「関係」によって決まる、だけでなく、「認識」を変えることによって「関係」も変化する、つまり存在や現象のあり方を変えることもできる、という考え方が生まれ、「六法」や「手印」などの「功法」へとつながります。この「老子第一章」を読めば、まるでつながりが無いように見える、哲学的な「道家」の思想から、現世利益の「道教」が生まれたのも、決して偶然では無いことがわかります)          





         老子 第二章 


 天下皆知美之為美、斯悪已。皆知善之為善、斯不善已。 故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音声相和、前後相随。 是以聖人処無為之事、行不言之教、万物作正焉而不辞 生而不有、為而不恃、功成而弗居、夫唯弗居、是以不去。


天下皆知美之為美、斯悪已。皆知善之為善、斯不善已。

天下皆美しきの美しきと為すを知るも、斯れ悪きのみ。

皆善きの善きと為すを知るも、斯れ不善のみ。

世の中の人は皆、美しいものが美しいとしか知りませんが、これは良くないことです。また、皆、善いことは善いとしか知りませんが、これでは善くありません。

 


 

故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音声相和、前後相随、是以聖人処無為之事、行不言之教、万物作正焉而不辞,生而不有、為而不恃、功成而弗居、夫唯弗居、是以不去。

故に有無は相い生じ、難易は相い成し、長短は相形づくり、音声は相い和し、前後は相い随い、是れを以って、聖人は無為の事を処し、言わずの教えを行い、万物作せど而して辞わず、生まれて而も有せず、為して而も恃まず、功成りて而も居らず、夫れ唯だ居らず、是れを以って去らず。

何故なら、「有」と「無」は対立する概念でありながら、「無」が無ければ「有」もなく、「有」がなければ「無」も無い、という「関係」にあります。

 同様に、「難しい」と「易しい」は相対的なものであり、「長い」と「短い」も相対的なものであり、「音」と「声」は、和するものであり、「前」と「後」は、常に確定しているものではありません。

 であるから、聖人=為政者は、事を処理するに当たり、無為、つまり自然に任せるべきであり、何も言わない教えを行い、すべての物事を成し遂げた後でそれについて言わず、何かを生み出してもそれを所有せず、やったことについて自慢せず、手柄の上に胡坐をかかず、そのように、自分が手柄の上にいないだけで、名誉を失うことがありません。





           老子 第三章


 不尚賢、使民不爭。不貴難得之貨、使民不為盗。不見可欲、使民心不亂。是以聖人之治、虚其心、実其腹、弱其志、強其骨、常使民無知無欲使夫知者不敢為也、為無為、則無不治不尚賢、使民不爭。不貴難得之貨、使民不為盗。不見可欲、使民心不亂。

 賢きを尚ばざれば、民をして争わざらしめ、得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗と為さざらしめ、欲す可きを見ざれば、民の心をして乱れざらしむ。是を以って聖人の治は、其の心を虚しくし、其の腹を実たし、其の志を弱め、其の骨を強め、常に民をして無知無欲ならしめ、夫れ知る者をして敢えて為さざらしめ、為すこと無きを為せば、則わち治まらざる無し。

 

 優秀な人を優遇しなければ、人民 は互いに争わなくなります。手に入りにくい物品を持て囃さなければ、人民は盗みをしなくなります。欲望を刺激するものを見せなければ、人民の心は欲望のために乱れません。ですから、為政者の治世は、人民に余計な欲望を持たせないようにし、必要最低限の、衣・食・住・行・育・楽を満足させ、野心や出世欲を弱め、健康状態を保たせ、つまらない情報や知識を与えず、知識がある者にも行動させず、自然に任せて何もしないことを徹底すれば、すべてがうまく治まるものです。





             老子 第四章  


 道冲、而用之或不盈、淵兮、似萬物之宗。挫其鋭、解其粉、和其光、同其塵。湛兮似常存。吾不知誰之子、象帝之先。

 道は冲なり、而して之を用いるに或いは盈(み)たず。淵(ひろ)兮(かな)、万物の宗に似たり。其の鋭きを挫き、其の粉を解き、其の光を和らげ、其の塵を同じくす。湛(しず)兮(かな)、常に存するに似たり。

吾は誰の子なるかを知らず、象(きざし)は帝の先にあり。

 

 「道」というものは、中が空洞の容器のようなもので、いくら入れても満たすことができません。実に広々としていますが、すべてのものの根本のようなものです。

 しかし「道」は、その鋭さを表に出さず、単純明快で複雑さを解消し、発する光は和やかで、俗っぽさと共存します。

 そのように、世間、世界に沈んでいて、いつもそこにあるように見えて、私(道)は誰の子か、どこから来たのかわかりませんが、の帝(宇宙を統合する法則・原理・真理)よりも以前からあったようです。




 

     老子 第五章 


 天地不仁、以萬物為芻狗、聖人不仁、以百姓芻狗。天地之間、其猶橐籥乎、虚而不屈、動而愈出、多言數窮、不如
守中。

 天地は仁(いつく)しみならず、万物を以って狗(すうく)と為す。聖人も仁(いつく)しみならず、百姓を以って芻狗と為す。天地の間、其れ籥(たくやく)猶(ごと)乎(か)。虚しけれど屈せず、動けば愈(いよいよ)出づる。多く言えば数(しばしば)窮まり、中を守るに如かず。 

 

天地大自然というものは、愛情などない酷いもので、人間たちをわらの犬のように扱います。同様に、為政者も酷いもので、国民をわらの犬のように扱います。 

天地の間は、まるでふいごのようなもので、中は空っぽでもつぶれたりはせず、動かせばどんどん空気が出ます。人は多く語れば自分の言葉に縛られるようになりますから、自分の本来の目標だけを守るべきです。

   



       老子 第六章


 谷神是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根、綿綿若存、用之不勤。 

谷神は死せず、是を玄牝と謂う。玄牝之門、是を天地の根と謂う。綿々と存するが若く、是を用いれば勤(つき)ず。 

 

 谷神(万物を生み育てる自然の摂理=道)というものは、永久に死ぬことはありません。別名を玄牝と言い、玄牝の入口を天地の根本と言います。弱々しくても切れることなく続き、いくら使っても尽きることがありません。





     老子 第七章 

 

 天長地久、天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生。是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。非以其無私耶故能成其私。 

天は長く地は久しく、天地所以に能く長く且つ久しき者、其の自ら生まれずを以ってす。故に能く長く生きる。是を以って聖人は、其の身を後にして而も身を先んじ、其の身を外にして而も身を存し、其の私無きを以って故に能く其の私を成すに非ず耶。


天地大自然というものは、長く久しく、いつまでも滅びることがありません。天地が長く久しくできるのは、自分から長生きしようとはしないところにあり、だからこそ長生きできるのです。 

ですから為政者は、自分の体を後にしてこそ体が前に行くし、自分のことを度外視してこそ自分が残り、私心が無いことによってこそ、私というものが成り立つというべきです。




     老子 第八章


上善如水、水善利万物而不爭。処衆人所惡、故幾於道。居善地、心善淵、與善仁、言善信、政善治、事善能、動善時。夫唯不爭、故無尤。 

上善は水の如し。水は善く万物に利しく而して争わず。衆人の悪(にく)むところに幾(ちか)し。善き地に居て、心善く能(かな)い、善き時に動け。夫れ唯争わず、故に尤無し。


最上の善いものは水のようなもので、水はあらゆるものにメリットを与え、他のものとは争いません。人々の嫌うところを処理してくれ、「道」に近いものです。

一番善いところに住んで、心を善く広くもって、善いいつくしみを与え、善い言葉を語り、善い政治を行い、善い結果を出し、最も善い時に動くものです。

およそ争わないので恨まれることもありません。

 




     老子 第章 

 

 持而盈之不如其已。揣而鋭之、不可長保。金玉満堂、莫之能守。富貴而驕、自遺其咎。功遂身退、天之道載。 

 持ちて之を(み)たすは、其の(たた)きて之を鋭くするは、長く保つ可からず。金玉を堂に満たせば、之を能く守ること莫し。富貴に而て驕れば、自から其の咎を遺し、功遂げて身退くは、天之道載(かな)

 

器がいっぱいの状態を保持しつづけるなら、最初からやめたほうが良いことです。刃物を鍛えて鋭くしても、永久に鋭さを保つことはできません。家いっぱいに金銀財宝を貯えても、これを守り続けることはできません。財力と地位や権力を持って威張っていたら、自分から不名誉を招くようなものです。手柄を立てたら身を退くのが天の決まりごとと言うべきです。

 



    老子 第章  


 営魄抱一、能無離乎専気致柔、能嬰児乎玄覧滌除、能無疵乎愛民治国能無為乎。天門開闔、能為雌乎。明白四達、能無知乎畜之、生而不有、為而不恃、長而不宰、是謂玄徳 

 営と魄は一に抱き、能く離れること無き乎。気を専らにして柔らかきに致り、能く嬰児なる乎。玄覧を滌除して、能く疵無き乎。民を愛しんで国を治めるに、能く無為なる乎。天の門を開き闔じるに、能く雌と為す乎。明白四達するも、能く無知なる乎。之を生みて之れを畜え、生みて有さず、為して而して恃まず、長らえて而して宰さどらず、是を玄徳と謂う。 

 

 体と心は、必ず一つであり、離れることは無いものでしょうか。時には離れてしまうのではないでしょうか。気を集中して心や体を柔軟にして赤ん坊のように純真無垢になることができますか。もちろんできる訳がありません。

 根本的なものの見方の汚れを洗い落として、ものの見方に欠点が無いようにできるでしょうか。人民を愛し、国家を治めるのに、小細工をせず、本当に無為自然にできるのでしょうか。目や耳や鼻や口から情報が入ったとき、動揺せず静かにしていることができるでしょうか。そこら中から情報が入ってきても、ネトウヨのブログのような下らない余計な情報を排除することができるでしょうか。

何かを生産したら蓄えておいて、自分が生み出したものだからと言って、これを保有せず、長く生産を行っても、支配・独占しないこと、これを玄徳と言い、つまり最も根本的な倫理というものです。





     老子 第十一章 


 三十輻共一轂、当其無有車之用埏埴以為器当其無有器之用鑿戸牅以為室。当其無有室之用故有之以為利、無之以為用

 三十の輻(や)で一つの轂(こしき)を共にし、当(まさ)に其の無きに車の用有り。埴(はに)を埏(かた)めて以って器を為し、当に其の無きに器の用有り。戸牅(とまど)を鑿(うが)ちて以って室と為し、当に其の無きに室の用有り。故に之れ有るを以って利と為すは、之れ無きを以って用と為す。

 

 車輪のスポークは車輪の中心に集まり、スポークが細くて空間が多いほど車輪が軽くなり、車輪としての機能が優れたものになります。 

粘土を固めて器を作るとき、何も無い空間こそが、器の容量であり機能があります。

出入り口や窓を開けて家を作れば、何も無い穴にこそ家としての機能があるものです。

このように、何かが有ることによって得られる利益とは、有ることで生まれる空間(無)によって得られる機能にあることが分かります。





      第十二章

 

 五色令人目盲、五音令人耳聾、五味令人口爽、馳騁田猟、令人心発狂、難得之貨、令人行妨。是以聖人為腹不為目、故去彼取此。

 五色は人の目を盲にせしめ、五音は人の耳を聾にせしめ、五味は人の口を爽にせしめ、馳騁田猟は人の心を発狂せしめ、得難きの貨は人の行いを妨げせしむ。

是れを以って聖人は、腹の為はするも目の為はせず、故に彼を去って此れを取る。

 

どぎつい色彩は人の色彩感覚を鈍感にしてしまい、うるさい音響は人の音感を鈍感にしてしまい、強い味付けは人の味覚を鈍感にしてしまい、馬を乗り回す狩猟は人を興奮させて狂気に導き、手に入りにくい貴重な品物は人を悪事に導きます。

だから為政者は、衣食住の充足だけを求め、享楽を求めず、生きてゆくのに必要のないものを取らず、必要なものだけを取るべきです。




    老子 第十三章      寵辱若驚    

 

 寵辱若驚、貴大患若身、何謂寵辱若驚、為下、得之若驚、失之若驚、是謂寵辱若驚。 何謂貴大患若身、吾所以有大患者、為吾有身、及吾無身、吾有何患。 故貴以身為天下、若可寄天下、愛以身為天下、若可托天下。

 

 寵辱は驚くが若く、大きな患らいを貴とぶは身の若し。何を寵辱驚くが若しと謂うや、下と為すや、之を得て驚くが若く、之を失いて驚くが若く、是を寵辱驚くが若しと謂う。 

 何を大きな患いを身の若く貴ぶと謂うや、吾れ大きな患らい有る者の所以は、吾れに身有る為、吾れに身無きに及べば、吾れ何を患らうや。 

 故に貴きは身を以て天下と為し、若し天下に寄る可きは、身を以て天下と為して愛しみ、天下を托す可きが若し。

 

  人々は、寵愛されたり辱かしめを受けるたりすると驚くようになり、大きな災難をわが身のように重く見ます。どうして寵愛されたり辱められたりすると驚くのかと言うと、(権力者の)下にいる人は、寵愛を受けたり辱めを受けたりすると驚くし、寵愛を失うと驚くもので、これを寵辱驚くが若し、と言います。

 

 どうして大きな災いをわが身のように重要視するかと言うと、我々にとって大きな災難というものは、我々に体があるからであり、体のことなどどうでも良いと思ったら、我々に何の心配があるでしょう。

 

 ですから、天下を自分の身と同じように大切に思う人なら、天下を預けることができ、天下をわが身のように愛せる人なら天下を任せることができます。



 

    老子 第十四章   無状之状、無物之象       

 視之不見、名曰夷、聴之不聞、名曰希、搏之不得、名曰微、此三者、不可致詰、故混而為一、其上不噭、其下不眛、縄縄不可名、復帰於無物、是謂無状之状、無物之象、是謂恍惚、迎之不見其首、随之不見其後、執古之道、以御今之有、能知古始、是謂道紀。

 之を視(み)て見えざれば、名付けて夷と曰(い)う、之を聴いて聞こえざれば、名づけて希と曰う、之を搏(う)ちても得ざれば、名づけて微と曰う。此の三者、詰めを致す可からず。故に混じり而て一と為す。

 其の上は噭(あか)るからず、其の下は昧(くら)からず、縄縄として名づく可からず、復た無き者に於いて帰る。之を無状の状、無物の象と謂う。これを恍惚と謂い、之を迎えれば其の首(かしら)が見えず、之に随えば其の後は見えず。古(いに)しえの道を執りて、以て今の有を御(あやつ)り、古しえの始まりを能く知れば、是れを道の紀と謂う。

 道というものは、見ようとしても見えないもので、これを「夷」と言います。聞こうとしても聞こえないもので、これを「希」と言います。触ろうとしても、触れないもので、これを「微」と言います、この三者は徹底的に突き止めることができないものであり、道はいろいろなものと交わっているものです。

 道の上は明るいわけではなく、道の下が暗いわけでもありません。連続して果てしなく、名前も付けられず、何もない、ということに、ふたたび落ち着くものです。これを、形のない形であり、物のない象徴である、と言います。

 道というものは、うっとりとしたものであり、迎えようとしてもその頭が見えないし、ついて行こうとしてもその後ろが見えません。

 昔の道を行って、今の存在をあやつり、昔の始まりをよく知れば、道というものの規律がよく理解できます。

 




      老子 第十五章     豫兮若冬渉川、猶兮若畏四隣、  

 古之善為道者、微妙玄通、深不可識、夫唯不可識、故強為之容、豫兮若冬渉川、猶兮若畏四隣、儼兮其若客、渙兮若氷之將釈、敦兮其若樸、曠兮其若谷、混兮其若濁、孰能濁以靜之徐清、孰能安以久動之徐生、保此道者、不欲盈、夫唯不盈、故能蔽不新成。

 古しえの善く道を為す者、微妙玄通にして、深きこと識(し)る可からず。夫(そ)れ、唯だ識る可からず、故に強いて之を容と為す。豫(よ)なる兮(かな)、冬に川を渉(わた)るが若く、猶(ゆう)なる兮四隣の畏(おそ)れるが若し。儼(おごそ)か兮(かな)、其(そ)れは客の若(ごと)く、渙(ち)る兮氷の将(まさ)に釈(と)けんが若く、孰(あつ)き兮其の樸(ぼく)の若く、曂(ひろ)き兮其の谷の若し。

 混る兮其れ若しも濁れば、孰(いず)れぞ能く濁りを靜かを以て之を徐き清めん、孰(いず)れぞ能く安らぎを久しきを以て之の動きの徐(ゆる)やかな生まれを。此の道を保つ者、盈(みつ)るを欲さず。夫(そ)れ唯(た)だ盈(みつ)らず、故に能く新しき成らずを蔽(すて)る

 昔から、よく道を理解した人は、繊細で素晴らしくて、根本的で融通が利いて、他人が知ることができないほどの深みを持っています。それを知ることが出来ないからこそ、敢えてこれを形容して表現します。象のように慎重に、まるで冬に川を渡るようであり、大象のように慎重に、まるで周囲が恐れているかのようです。おごそかなこと、まるで賓客のようであり、はつらつとして、まるでこれから氷が解けるようで、素朴なこと、まるでまだ手をつけていない素材のようで、広々としていることは、まるで谷のようです。

清濁あわせて混じりあって、この人は、まるで濁っているかのようです。誰がこの人のように、濁りに対して、静かさによって、ゆっくりと沈殿するのを待つかのように、清らかにすることができるでしょうか。誰がこのように、その動きのゆったりとした性質で、時間をかけて安まることができるでしょうか。この道を歩んだ人は、自己満足や自惚れがなく、だから古くて役に立たないものを捨て去ることが出来るのです。

 日本のテキストでは、「古之善為道者」の「道」が「士」になっていますが、中国のテキストでは、すべて「道」になっています。

「渉大川」という記述は、『周易』の、「需卦」、「頤(い)卦」、「蠱(こ)卦」、「大畜卦」、「益卦」、「中孚卦」、「訟卦」、「同人卦」、に見られ、冒険を侵すとか、条件が厳しい、慎重さが必要、といった意味に使われています。つまり、『周易』と『老子』で使われる漢字や表現には、共通性があると考えることができます。

 すると、次の「豫兮」という表現も、『周易』の「豫卦」つまり、象が鼻で地面を確認しながら慎重に歩くことから、慎重という意味に取ることができます。

 次の「猶」の字は、『周易』にはありませんが、「豫」よりも大きな象のことであり、「猶豫」という言葉は象のように慎重、という意味を表わします。

 当時使われた漢字の意味は、現代はもちろん、秦漢時代と比べてもかなり違っており、当時の漢字の意味を知らないと、まともに訳すことができません。



     


     老子 第十六章    公乃全、全乃天 

 致虚極、守靜、萬物並作、吾以観復。夫物芸芸、各復帰其根。帰根曰靜、是謂復命。復命曰常、知常曰明。不知常、妄作凶、知常容、容乃公。公乃全、全乃天。天乃道、道乃久、没身不殆。

 虚の極まりに致(いた)り、静かの篤(あつ)きを守れば、萬物並びに作(な)して、吾以て復を観る。夫(そ)の物が芸(いん)芸(いん)たるも、各(おの)おのが復(ま)た其の根に帰る。根に帰るを静と曰(い)い、是れを命に復(かえ)ると謂う。命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰う。常を知らずして妄りに作せば凶、常を知れば容(うけいれ)、容乃(すなわ)ち公。公乃ち全、全乃ち天。天乃ち道、道乃ち久しく、身没(しず)めども殆(あや)うからず。

心を先入観の無い空しい状態の極致にして、非常に静かな状態を保持すれば、すべてのものごとが一緒に動いていることについて、行ったり来たりすることについて、我々はすべて見極めることができます。

そもそもすべての物事がいくら多くても、すべての物事はそれぞれその根本に落ち着くものです。この根本に落ち着くことを静と言い、これは天地大自然の摂理により命じられたものです。

天地大自然の摂理に落ち着くことを常と言い、常=当然のこと、を知ることを明と言います。常を知らずにでたらめをやれば悪く、常を知っていれば何もかも受け容れることができ、受け入れられればすべてに公平であることができます。公平であれば完全であり、完全であれば自然体であり、自然体こそが道であり、道は永久的なものであり、肉体が無くなってしまっても、道から外れることがありません。

 

※日本のテキストでは、「公乃全、全乃天」の「全」が「王」になっていますが、中国のテキストではすべて「全」になっています。

 

天命之謂性   天命 之れを性(さが)と謂う

率性之謂道   性にしたがう 之れを道と謂う

修道之謂教   道を修める 之れを教と謂う

 





     老子 第十七章   太上不知有之        

 太上不知有之、其次親而誉之。其次畏之、其次侮之。信不足焉、有不信焉、悠兮其貴言、功成事遂、百姓皆謂我自然。

 大上は之れ有るを知らず、其の次は親しみて之れを誉め、其の次は之を畏れ、其の次は之を侮る(あなど    )。信足らざる焉(なり)、信ぜざるも有る焉。悠(のど)か兮(かな)其の貴い(とうと     )言(ことば)、功成りて事を遂げ、百姓皆我れを自然と謂う。

 最も素晴らしい政体は、人々がその存在に気が付かないもので、その次に良いのは、民が親しんでほめるものです。その次は人々が恐れるもの、その次は民に馬鹿にされるものです。信用が不足していることもあり、全く信用がないものもあります。

 のんびりとしていてその言葉は少なくて、貴重で大切なことしか言わず、言う通りに成し遂げても、民は皆お上が自然体であると言います。

 

(注)「太上不知有之」を「大上下知有之」とするテキストがあるようですが、それは間違いです。




    老子 第十八章    大道廃有仁義      

 大道廃、有仁義、智慧出、有大僞、六親不和、有孝子、国家昏亂、有忠臣。

 大道廃れて仁義有り、智慧出でて大偽有り、六親和せずして孝子有り、国家昏乱して忠臣有り。

 道がないがしろにされると、仁義という道徳が出てくるものです。智慧というものが出て来てから、ひどいウソやイカサマが出てきます。家庭がうまく行かなくなると、孝行息子が注目されます。国家が乱れて混迷していると、忠臣と言われる人が現れます。

(注)「智慧」を「慧智」とするテキストがありますが採用しません。





     老子 第十九章   絶聖棄智       

 絶聖棄智、民利百倍。絶仁棄義、民復孝慈。絶巧棄利、盗賊無有。此三者、以為文不足、故令有所属、見素抱樸、少私寡欲

 聖を絶ちて智を棄てれば、民の利(よろ)しきは百倍す。仁を絶ちて義を棄てれば、民は復(ふた)たたび孝にして慈しむ。巧みを絶ちて利を棄てれば、盗賊有ること無く、此の三者、以て文の為に足らず、故に所属を有ら令(し)む。素を見(あら)わして樸を抱き、私を少なくして欲も寡なし。


 政治と関係を絶ち、小賢しい智慧に頼ることをやめれば、民衆の利益は百倍にも増えます。ゆとりを持たず、義務を棄てれば、民衆は親孝行や子への慈愛を取り戻します。要領の良さを棄てメリットを放棄すれば、盗賊などは出なくなります。

 聖智、仁義、巧利という三者は、本来あるべき大自然の道ではなく、人為的に粉飾した規範ですから、人の為になるには不足なものであり、人々を正しくないところに所属させてしまいます。人は中も外も素朴にしていれば、私心が少なくなり、欲望が起こりません。

 

 



     老子 第二十章    絶学無憂  

絶學無憂。唯之與阿、相去幾何。善之與悪、相去何若。人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉、衆人煕煕、如享大牢、如春登臺。我獨泊兮其未兆、如嬰兒之未孩儽儽兮若無所歸衆人皆有餘、而我獨若遺。我愚人之心也哉、沌沌兮、俗人昭昭、我獨昏昏、俗人察察、我獨悶悶。澹兮其若海、兮若無止、衆人皆有以、而我獨頑似鄙。我獨異於人、而貴食母。

 学を絶てば憂い無し。唯(い)之(し)と阿(あ)と、相去ること幾何(いくばく)か、善之と悪と、相去ること何(いく)若(ばく)か。人之畏れる所、畏れざる可からず。荒(あら)き兮(かな)其の未だ央(つ)きざる哉(や)、衆人(しゅうじん)熙熙(ひろびろ)として、大牢(うしうま)を享(う)けるが如く、春に台に登るが如し。我独り泊(しろ)き兮(かな)其の未だ兆(きざ)しあらざりて、嬰兒の未だ孩(わら)わざるが如し。儽儽(るいるい)兮(かな)帰る所無きが若し。衆人皆余り有るに、而して我独り遺(つかわ)すが若し。我は愚か人の心なる哉、沌沌兮(とんとんかな)。俗人は昭(しょう)昭(しょう)として、我独りは昏昏(こんこん)、俗人は察察(さつさつ)、我独りは悶悶(もんもん)。澹(しず)か兮(かな)其の海の若(ごと)きは、飂(りょう)なる兮(かな)止まること無きが若し。衆人皆以て有り、我独り頑(かたく)なで鄙(ひ)に似たり。我独り人に於いて異なり、而して食母を貴(とう)とぶ。


 学ぶことと縁を切れば、人は憂いが無くなります。「はい」と「は~い」とではどれだけ離れていることでしょうか、善行と悪業とは、どれだけ離れていることでしょうか。人が恐れることは、自分も恐れるべきものです。広くて大きいはてしないことですね、大勢の人が和やかで楽しく、牛肉や馬肉を食べるように、春に台に登って景色を眺めるように、楽しいものです。私は独り淡々として予兆の無いところにいて、赤ん坊がまだ笑うことができない時代のようなものです。だらだらとして、落ち着く先が無いようです。大勢の人々は皆自己満足でおごっているのに、ただ私独りは足りないように謙虚な気持ちでいられます。私はまるで愚かな人のような心で、無知のように見えます。俗世間の人々は光り輝いて、私独りは輝かず、俗人は何でも知っているように見えて、私独りだけ混沌として何も知りません。学んでいない自分は海のような静けさであり、どこへでも飛べる自由さはとどまることを知りません。多くの人は皆何でもできるように見えて、自分だけが独り愚鈍で野鄙なようです。私独りが他の人とは異なっており、食母すなわち道を貴とぶものです。

 




 


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