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「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の本歌「 鐘つけば銀杏散るなり建長寺」は夏目漱石の作 已然形の使い方

2022.05.11 記

二首ともに、秋の句ですが、

昨夜BS4の「ぶらぶら美術・博物館」という番組で、初夏の建長寺を訪れるという企画があり、中でも、山田五郎さんの解説が面白く、

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という、正岡子規の最も有名な俳句は、

夏目漱石の「 鐘つけば銀杏散るなり建長寺」を本歌とするもの、というお話。 

 

鐘つけば銀杏散るなり建長寺」は、1895年9月、松山の新聞紙上に掲載されたもので、当時、中国帰りの子規が、漱石の下宿先に居候していました。つまり、子規は、漱石の句を当然に知っていました。

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、子規が松山から東京に戻る際、漱石に旅費を無心して奈良を訪れた際に読まれたという句で、同年11月に発表されたものです。実際には東大寺で柿を食べたときのことで、法隆寺ではなかったそうですが。

子規の句のほうが、漱石の句の二か月後に発表されたものですし、非常によく似ていますから、子規が漱石の句を参考にした、つまり和歌で言う本歌取りであったことは間違いありません。

これを、真似とか盗作などという無知な人もいますが、そんな訳はなく、また山田五郎さんの言うように、手本を示したというものでもありません。

どうしてそのように言えるかというと、その時、奈良で一緒に詠まれた句、

「柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな」

「渋柿やあら壁つづく奈良の町」

「晩鐘や寺の熟柿落つる音」

「柿赤く稻田みのれり塀の内」

いずれも非常に平凡でつまらない作品ばかりで、おそらくは、誰も聞いたことがない句ばかりでしょう。つまり、漱石の句がなければ、子規の句も無かった、と言うべきです。

 

鐘つけば銀杏散るなり建長寺」とはどういう意味か、と言えば、

建長寺で、鐘をついたので、銀杏の葉が散ったことだな~ 

「つけば」というのは「已然形」とされるものであり、英語で言う過去完了形に当たるものですが、多くの場合、何々をしたのでどうなった、という因果関係として使われます。

例えば、

「都へと思ふをものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり」(紀貫之・土佐日記)

訳:都へ帰れると思うにつけても悲しく思えるのは、帰らない人がいるからなのだな~

「帰らぬ人」というのは、死んでしまった娘のことで、「あれ」は「ある」の已然形で、「あれば」で原因を示し、「あればなり」は「あるからである」という意味になります。この言い方は、散文でもよく使われ、「なればなり」という言い方が多く見られます。

「鐘をついたので銀杏の葉が落ちた」というのは、因果関係としては無理があるようにも見えますが「そう思えた」という話で良いかと思います。

 

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の「くへ」は「くふ」の已然形であり、「くへば」は「食ったので」という原因を示すものですが、「柿を食べたので鐘が鳴る」という因果関係は、「鐘をついたので銀杏の葉が落ちた」という以上に無理があるものの、やはり「そう思えた」という話で良いことかと思います。

いずれにしろ、夏目漱石の句「 鐘つけば銀杏散るなり建長寺」が、正岡子規の句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の本歌であり、本歌無しにはこの句も無かったのは間違いないはずです。

 

これについて、正岡子規は已然形の使い方がよく解っていなかった、と言う人もいるそうですが、子規の短歌に次のようなものがあります。

瓶にさす 藤の花ぶさ みじかければ たたみの上に とどかざりけり

訳:瓶に挿した藤の花房が短かったので、畳の上には届かなかったことだな~

当時の難病=脊椎カリエスで病床にあった子規が、自分の命も短い、というニュアンスを込めたものと思われますが、「みじかければ」は、已然形+「ば」で「短かったので」という原因を表現しており、子規が已然形の使い方を熟知していたことは、疑問の余地がありません。

このように、明治の文学者たちは、已然形などの国文法をよく理解しており、使い方がおかしくなったのは、戦後というよりは「教育勅語」以来というべきです。

 

ところで、子規が実際に訪れて柿を食べたのは、法隆寺ではなく東大寺だったのですが、おそらくは、法隆寺のほうが、この句にピッタリする感じがしたのでしょう。

そう言えば、漱石が参禅して挫折したのも円覚寺であって、建長寺ではなかったのですが、円覚寺には「父母未生以前本来の面目」という嫌な思い出=トラウマがあったので、建長寺に書き換えたのかも知れません。

 

そのトラウマというのが、こちら↓

デカルトの「我思う故に我あり」を3才の子どもにでも分かるような真理と言いながら、「父母未生以前本来の面目」という公案に答えられなかった夏目漱石

 

 

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